差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
195 バイト除去 、 2025年1月26日 (日)
編集の要約なし
建御名方神は『古事記』では葦原中国平定('''国譲り''')の場面で記述されている。これによると、[[天照大御神]]・[[高御産巣日神]]らによって派遣された建御雷神と[[天鳥船神]]が大国主神に葦原中国の国譲りを迫った際、大国主神は御子神である事代主神が答えると言った。事代主神が承諾して隠れると、大国主神は次に建御名方神が答えると言った<ref name="古事記"/>。建御名方神は千引の石(千人もの大勢の力を必要とするような巨大な岩)を手先で差し上げながら現れ、建御雷神に力競べを申し出た。そして建御雷神の手を掴むと、建御雷神の手は氷や剣に変化した。建御名方神がこれを恐れて下がると、建御雷神は建御名方神の手を若葦のように握りつぶして、放り投げた。建御名方神は逃げ出したが、建御雷神がこれを追い、ついに科野国の'''州羽海'''(すわのうみ)まで追いつめて建御雷神を殺そうとした。その時に、建御雷神はその地から出ない旨と、大国主神・事代主神に背かない旨、葦原中国を天津神の御子に奉る旨を約束したという<ref name="古事記">『新編日本古典文学全集 1 古事記』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、p. 107-111。</ref>。
一方『[日本書紀』では建御名方神が登場せず、大己貴神(大国主)は事代主神の意向を聞いた後に国譲りを承諾する。ここでは[日本書紀[高御産巣日神|高皇産霊尊]]』ではタケミナカタが登場せず、大己貴神(大国主)は事代主神の意向を聞いた後に国譲りを承諾する。ここでは高皇産霊尊(タカミムスビ)に遣わされた神々は武甕槌神(タケミカヅチ)とに遣わされた神々は武甕槌神と[[経津主神]](フツヌシ)である。である。
『[[先代旧事本紀]]』「[[天神本紀]]」では『古事記』と『日本書紀』の記述が組み合わされたものが書かれており、使者は『書紀』と同様に武甕槌神と経津主神となっている『先代旧事本紀』「天神本紀」では『古事記』と『日本書紀』の記述が組み合わされたものが書かれており、使者は『書紀』と同様に武甕槌神と経津主神となっている<ref name="天神本紀">「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/125 先代旧事本紀 巻第三 天神本紀]」『国史大系 第7巻』経済雑誌社、1898年、222-223頁。</ref><ref>[[宮地直一]]『[https://books.google.co.jp/books?id=4hBVjsO2GOgC 諏訪史 第2巻 前編]』信濃教育会諏訪部会、1931年、82頁。</ref>。
==== 『諏方大明神画詞』の国譲り神話 ====
『旧事本紀』における国譲り神話は『'''[[諏方大明神画詞]]'''』(1356年成立)の冒頭に採用されているが、タケミナカタの敗戦と逃亡、追いつめられ殺されようとした話は見られない。』(1356年成立)の冒頭に採用されているが、建御名方神の敗戦と逃亡、追いつめられ殺されようとした話は見られない。
{{quotation|<blockquote>それ日本信州に一つの霊祠あり。諏方大明神これなり。神降の由来、その義遠し。<br />{{Ruby|竊|ひそ}}かに国史の所説を見るに『旧事本紀』に云ふ、[[天照大神]]みことのりして、[[経津主神|経津主]]の<small>([[香取神宮|総州香取社]])(総州香取社)</small>神、武甕槌の<small>([[鹿島神宮|常州鹿嶋社]])(常州鹿嶋社)</small>神、二柱の神を出雲国へ降し奉りて、大己貴の<small>([[出雲大社|雲州杵築]]・[[大神神社|和州三輪]])(雲州杵築・和州三輪)</small>命に宣はく、「葦原の中津国は我が御子の知らすべき国なり。汝、まさに国を以て天照大神に奉らんや。」<br />大己貴の命申さく、「吾が子、事代主の<small>([[長田神社|摂州長田社]]・[[八神殿|神祇官〔第八〕]])(摂州長田社・神祇官〔第八〕)</small>若神に問ひて返事申さん」と申す。<br />
事代主の神申さく、「我が父、宜しくまさに去り奉るべし。我〔も〕違ふべからず」と申す。<br />
「又申すべき我が子ありや。」<br />
又我が子、建御名方<small>(諏方社)</small>神、千引の石を手末に捧げ来りて申さく、「誰、この我が国に来たりて忍び忍びにかく云ふは。而して力競べせんと思ふ。」<br />
先づその御手を取りて、即ち氷を成り立て、又剣を取り成しつ{{efn|梵舜本<ref>梵舜本では「剱ヲ取成」とあり、『古事記』と『旧事本紀』の文章(「即取成立氷、亦取成剱刃」)と一致する。権祝本では「釼ヲ取耒(来)」とある</ref><ref name="Kanai"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://webarchives.tnm.jp/dlib/detail/1362|title=, 諏方縁起絵巻|website=, 東京国立博物館デジタルライブラリー|access-date=, 2019-10-16}}</ref>では「剱ヲ取成」とあり、『古事記』と『旧事本紀』の文章(「即取成立氷、亦取成剱刃」)と一致する。権祝本では「釼ヲ取耒(来)」とある。}}。科野の国・洲羽の海に至る時、建御名方の神申さく、「我、この国を除きては他処に行かじ」と云々。これ則ち〔当社〕垂迹の本縁なり。<ref>間枝遼太郎「[https://k-rain.repo.nii.ac.jp/record/599/files/kokugakuinzasshi_121_10_003.pdf 『先代旧事本紀』の受容と神話の変奏―神社関連記事の利用をめぐって―]」『國學院雑誌』第121巻第10号、2020年10月、52-54頁。</ref><ref name="Kanai">金井典美「「諏訪大明神絵詞」梵舜本と権祝本の異同対照」『諏訪信仰史』名著出版、1982年、218-277頁。</ref><ref name="Yamashita">山下正治 「[https://hdl.handle.net/11266/2379 訓読・諏訪大明神絵詞(一)(<共同研究>関東周辺の歴史と文学の研究)]」『立正大学人文科学研究所年報 別冊』16号、2006年、9-18頁。</ref><ref name="Hanaya">塙保己一編「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936498/45 続群書類従巻七十三 諏訪大明神絵詞]」『続群書類従 第3輯ノ下 神祇部』続群書類従完成会、1925年、494-539頁。</ref>}}<blockquote>
諏訪大社の祭神として『画詞』には載せるには不適当と考えたもので編纂者の[[諏訪円忠]]が削除したと考えられていたが<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、695-696頁。</ref>、円忠は『旧事本紀』そのものでなくタケミナカタの不名誉な記述が省略された抄出文を利用した可能性を間枝遼太郎(2020年)が指摘した。[[大須観音#文化財|真福寺]]本『古事記上巻抄』という文書に「'''諏方社事'''」と題する『旧事本紀』の抜粋文が含まれており<ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/3438605|title=古事記上巻抄|year=1924|website=国立国会図書館デジタルコレクション|access-date=2024-09-01}}</ref>、ここで省略されている箇所が『画詞』とほぼ一致しているため、円忠が編纂の際に用いたテキストであると間枝が特定している<ref>間枝遼太郎「『先代旧事本紀』の受容と神話の変奏―神社関連記事の利用をめぐって―」『國學院雑誌』第121巻第10号、2020年10月、47-52頁。</ref>。抄出文は円忠が『画詞』の編纂にあたって諏訪大社の縁起について調査を行った際にやりとりしていた[[吉田神社|吉田]]流[[卜部氏]]の卜部兼豊あるいは[[平野神社|平野]]流の卜部兼前が作成・提供したものと考えられる<ref>間枝遼太郎「『先代旧事本紀』の受容と神話の変奏―神社関連記事の利用をめぐって―」『國學院雑誌』第121巻第10号、2020年10月、49-50頁。</ref>。

案内メニュー