天稚彦の喪屋は『古事記』では地上に作ったとあるが、『日本書紀』では疾風(はやち)に遺体を上げさせて、喪屋は天に作ったとある。
天稚彦と[[阿遅鉏高日子根神]]がそっくりだったということで、本来同一の神であったとする説もある。すなわち、天若日子の死と[[阿遅鉏高日子根神]]としての復活であり、これは穀物が秋に枯れて春に再生する、または太陽が冬に力が弱まり春に復活する様子を表したものであるとする<ref group="私注">人でも神でも、「生き返ること」が可能であったとして、果たして「死ぬ前のもの」と、「生き返ったもの」を神話的に「同じもの」として扱って良いのだろうか、と管理人は考える。例えば[[盤古]]は死んで万物に変化した、と言われる。変化した万物の一つ一つは[[盤古]]が変化したもの、といえるかもしれないが、元の[[盤古]]と「同じもの」であるとは言えないと思う。よって、神話であっても、死ぬ前のものと、生き返ったものは「'''別のもの'''」と考えるべき、と管理人は思う。天若日子と[[阿遅鉏高日子根神]]の存在には「死と再生」という連続性はあるかもしれないが、それぞれは「'''別のもの'''」なのである。もし[[阿遅鉏高日子根神]]が天若日子の変化したものであれば、管理人は、それは中国で言うところの「鬼」であるとすべきと思う。ただし、管理人は、天若日子が死んで変化したものが[[阿遅鉏高日子根神]]だとは考えない。管理人は天若日子と大国主命を「同じ神」と考えているので、[[阿遅鉏高日子根神]]は天若日子の「息子」というべきと考えているのだ。天若日子は「'''死んでそれっきり'''」と解すべきと考える。ただし、それが大国主命となると話は別で、大国主命は「'''死んだ後、[[須佐之男命]]の化身として蘇る。'''」のだ。[[須佐之男命]]は[[阿遅鉏高日子根神]]と「ほぼ同じ神」である。だから、'''大国主命は「死んで[[阿遅鉏高日子根神]]として復活した」といえる'''かもしれないと考える。でも、それを天若日子の神話としてはいけないのだと思う。大国主命と天若日子は、同じ神でも、2つに分けたことに意義があると思うのだ。天若日子は死んで[[須佐之男命]]になったりしない'''「地上の人々のため」の神'''でなければならないのではないだろうか。大国主命は'''死んで祟り神の[[須佐之男命]]になることに意義がある神'''なのだと考える。</ref>。としての復活であり、これは穀物が秋に枯れて春に再生する、または太陽が冬に力が弱まり春に復活する様子を表したものであるとする。
天上の神に反逆したために返し矢に当たって死ぬ物語は『創世記』(旧約聖書の一書)の登場人物・ニムロドにまつわる伝承と似ており、この説話がインド・中国・東南アジアを経て、日本に伝わったと考えられている<ref>次田真幸 『古事記(上)全訳注』 講談社学術文庫 38刷2001年(1刷77年) ISBN 4-06-158207-0 p.154.</ref><ref group="私注">天の神の命令に服さず殺される点は中国神話の[[鯀]]と[[祝融]]の関係に似る。</ref>。
はそれぞれに「同じ神」だと考えている。[[赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命]]には「'''葦高'''さん」と呼ばれる別称があるのだが、大国主命にも葦に関する「'''葦'''原醜男」という別名がある。大国主命はサメに殺されそうになっている白兎を助けるが、[[赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命]]の別名の存在ともいえる信濃国の霊犬・[[早太郎]]は人身御供の乙女を助ける。そして、日本ではなく中国の神話だけれども、天界から降りてきた若い蛙神は天の神に逆らって人々を人身御供から助けようとする。彼らはすべて、「'''人身御供にされそうになっている弱者を助ける神'''」として共通の性質を持っている。だから、元はみな「同じ神」だと管理人は考えるのだ。
=== 天若日子と阿遅鉏高日子根神は同じ神なのか ===
人でも神でも、「生き返ること」が可能であったとして、果たして「死ぬ前のもの」と、「生き返ったもの」を神話的に「同じもの」として扱って良いのだろうか、と管理人は考える。例えば[[盤古]]は死んで万物に変化した、と言われる。変化した万物の一つ一つは[[盤古]]が変化したもの、といえるかもしれないが、元の[[盤古]]と「同じもの」であるとは言えないと思う。よって、神話であっても、死ぬ前のものと、生き返ったものは「'''別のもの'''」と考えるべき、と管理人は思う。天若日子と[[阿遅鉏高日子根神]]の存在には「死と再生」という連続性はあるかもしれないが、それぞれは「'''別のもの'''」なのである。もし[[阿遅鉏高日子根神]]が天若日子の変化したものであれば、管理人は、それは中国で言うところの「鬼」であるとすべきと思う。
ただし、管理人は、天若日子が死んで変化したものが[[阿遅鉏高日子根神]]だとは考えない。管理人は天若日子と大国主命を「同じ神」と考えているので、[[阿遅鉏高日子根神]]は天若日子の「息子」というべきと考えているのだ。よって、天若日子は「'''死んで[[阿遅鉏高日子根神]]とは異なる別のものになった'''」と解すべきと考える。ただし、それが大国主命となると話は別で、大国主命は「'''死んだ後、[[須佐之男命]]の化身として蘇る。'''」のだ。[[須佐之男命]]は[[阿遅鉏高日子根神]]と「ほぼ同じ神」である。だから、'''大国主命は「死んで[[阿遅鉏高日子根神]]として復活した」といえる'''かもしれないと考える。でも、それを天若日子の神話としてはいけないのだと思う。大国主命と天若日子は、同じ神でも、2つに分けたことに意義があると思うのだ。天若日子は死んで[[須佐之男命]]になったりしない'''「地上の人々のため」の神'''でなければならないのではないだろうか。大国主命は'''死んで祟り神の[[須佐之男命]]になることに意義がある神'''なのだと考える。
=== 二人の女神の対立 ===