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3 バイト追加 、 2022年2月24日 (木) 07:35
その後、羿は狩りなどをして過ごしていたが、家僕の逢蒙(ほうもう)という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技を全て吸収した後、「羿を殺してしまえば私が天下一の名人だ」と思うようになり、ついに羿を撲殺してしまった。このことから、身内に裏切られることを「羿を殺すものは逢蒙」(逢蒙殺羿<ref>『孟子』に「逢蒙殺羿、羿也有過」という文がある。</ref>)と言うようになった<ref>袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 322-325頁</ref>。
== 夏の時代の羿 夷羿(夏の羿) ==
別に伝えられているのは、『路史』夷羿伝や『[[春秋左氏伝]]』などにあるもので[[夏 (三代)|夏]]王朝を一時的に滅ぼしたという伝説である。こちらの伝説ではおもに后羿(こうげい)という呼称が用いられている<ref>[[市村瓚次郎]] 『東洋史統』1巻 [[冨山房]] [[1940年]] 50頁</ref>。堯と夏それぞれの時代を背景にもつ2つの伝説にどういった関わりがあるのかは解明されていない部分がある<ref>[[内藤虎次郎]] 『支那上古史』 弘文堂書籍 [[1944年]] 66-67頁</ref>。[[白川静]]は、後者の伝説は羿を奉ずる部族が、夏王朝から領土を奪ったことを示しているとしている。

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