** のちの名:'''倭建命'''(やまとたけるのみこと)、倭建御子(やまとたけるのみこ)
「ヲウス(小碓)」の名称について『日本書紀』では、双子([[大碓皇子|大碓命]]・小碓尊)として生まれた際に、天皇が怪しんで臼(うす)に向かって叫んだことによるとする<ref name="日本書紀"/>。「ヲグナ(童男/男具那)」は未婚の男子の意味<ref name="日本書紀"/>。「ヤマトタケル」の名称は、[[川上梟帥]](または[[クマソタケル|熊曾建]])の征討時に捧げられた(後述)。「尊」の用字は皇位継承者と目される人物に使用されるもので、『日本書紀』での表記は同書上でヤマトタケルがそのように位置づけられたことによる<ref name="日本書紀"/>。
[[ファイル:Yamato Takerunomikoto & Kawakami Takeru.jpg|サムネイル|日本武尊と 川上梟帥。[[月岡芳年]]画]]
文献で見えるその他の表記は次の通り。
* 倭武命 - 『[[日本三代実録]]』『日本三代実録』<ref group="原">『日本三代実録』貞観3年(861年)11月11日条。</ref>* 倭武尊 - 『[[古語拾遺]]』『古語拾遺』* 倭建尊 - 『[[新撰姓氏録]]』『新撰姓氏録』<ref group="原">『新撰姓氏録』和泉国皇別 和気公条、和泉国皇別 聟本条。</ref>
* 日本武命 - 『尾張国風土記』逸文<ref group="原">『釈日本紀』巻7 草薙劔条所引『尾張国風土記』逸文。</ref>、『古語拾遺』
* 倭武天皇 - 『[[常陸国風土記]]』『常陸国風土記』<ref group="原">『常陸国風土記』序文、信太郡条、茨城郡条、行方郡条、香島郡条、久慈郡条。</ref>
* 倭建天皇 - 『常陸国風土記』<ref group="原">『常陸国風土記』久慈郡条、多珂郡条。</ref>
* 倭健天皇命 - 『阿波国風土記』逸文<ref group="原">『万葉集註釈』巻7所引『阿波国風土記』逸文。</ref>
なお、「武」・「建」の訓については「タケル」ではなく「タケ」とする説がある{{Sfn|<ref>日本武尊(国史)}}<>/ref<ref name="中村"/>。その中で、「タケル」は野蛮を表現する語であり、尊号に用いられる言葉ではないと指摘される<ref name="中村">[[中村啓信]] 『新版古事記』角川学芸出版[角川ソフィア文庫]、2009年、ISBN 978-4-04-400104-9。</ref>。「ヤマトダケ ノ ミコト」と読まれる場合もある{{sfn|<ref>音川安親|, 1880}}</ref>。
== 系譜 ==
[[ファイル:Emperor family tree8-15.png|thumb|right|200px|天皇系図 8〜15代]]{{Smaller|<sup>(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)}}</sup>
父は第12代'''[[景行天皇]]'''。母は[[皇后]]の。母は皇后の[[播磨稲日大郎姫]](はりまのいなびのおおいらつめ、針間之伊那毘能大郎女/稲日稚郎姫)。『古事記』では、針間之伊那毘能大郎女を[[稚武彦命|若建吉備津日子]](吉備臣らの祖)の娘とする<ref name="古事記"/>。
『日本書紀』・『先代旧事本紀』では第二皇子とし、同母兄は[[大碓皇子]]のみで双子の兄とする<ref name="日本書紀"/>。『古事記』では第三皇子とし、同母兄を[[櫛角別王]]・大碓皇子(双子の記載はない)、同母弟を[[稚倭根子皇子|倭根子命]]・[[神櫛皇子|神櫛王]]とする。『古事記』では第三皇子とし、同母兄を櫛角別王・大碓皇子(双子の記載はない)、同母弟を倭根子命・神櫛王とする<ref name="古事記"/>。
妻子は次の通り<ref name="日本書紀"/><ref name="古事記"/>(「紀」は日本書紀、「記」は古事記を指す。「旧事本紀」は先代旧事本紀に見える事柄にのみ記載)。
* 妃:[[両道入姫命|両道入姫皇女]](ふたじいりびめのひめみこ、布多遅能伊理毘売命) - 垂仁天皇皇女(記)。
** [[稲依別王]](いなよりわけのみこ、記の母は別) 稲依別王(いなよりわけのみこ、記の母は別) - 犬上君・[[建部氏|武部君]](建部君)の祖(記紀)。犬上君・武部君(建部君)の祖(記紀)。
** 足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと、帯中津日子命) - 第14代'''[[仲哀天皇]]'''。
** 布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと、記なし)
** 稚武王(わかたけるのみこ、記なし) - 近江建部君の祖・宮道君等の祖(旧事本紀)。
* 妃:吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ、大吉備建比売) - [[吉備武彦]]の娘(紀)、吉備臣建日子の妹(記)。吉備武彦の娘(紀)、吉備臣建日子の妹(記)。** [[武卵王]](たけかいごのみこ、建貝児王) 武卵王(たけかいごのみこ、建貝児王) - 讃岐綾君の祖(記紀)、登袁之別・麻佐首・宮道之君らの祖(記)。** [[十城別王]](とおきわけのみこ、記なし) 十城別王(とおきわけのみこ、記なし) - 伊予別君の祖(紀)。* 妃:[[弟橘媛]](おとたちばなひめ、弟橘比売命) - [['''穂積氏]]の[[建忍山垂根|忍山宿禰]]の娘(紀)。9男を生む(旧事本紀)。'''の忍山宿禰の娘(紀)。9男を生む(旧事本紀)。** [[稚武彦王]](わかたけひこのみこ、若建王) 稚武彦王(わかたけひこのみこ、若建王) - [[須売伊呂大中日子]]の父、[[迦具漏比売]]([[応神天皇]]の妃)の祖父。須売伊呂大中日子の父、迦具漏比売(応神天皇の妃)の祖父。
* 妃:山代之玖々麻毛理比売(やましろのくくまもりひめ、紀なし)
** [[蘆髪蒲見別王|足鏡別王]](あしかがみわけのみこ、蘆髪蒲見別王足鏡別王(あしかがみわけのみこ、蘆髪蒲見別王/葦噉竈見別王) - 鎌倉別・小津石代之別・漁田之別の祖(記)。* 妃:布多遅比売(ふたじひめ、紀なし) - [[安国造|'''淡海安国造]]'''の祖の意富多牟和気の娘(記)。
** 稲依別王(いなよりわけのみこ、紀の母は別) - 両道入姫皇女の所生とする紀とは異同。
* 一妻(記では名は不詳、旧事本紀では橘媛)
** [[息長田別王]](おきながたわけのみこ、紀なし) 息長田別王(おきながたわけのみこ、紀なし) - [[河派仲彦王]]の父、[[息長真若中比売]]([[応神天皇]]の妃)の祖父、[[稚野毛二派皇子]]の曽祖父、[[忍坂大中姫]]・河派仲彦王の父、息長真若中比売(応神天皇の妃)の祖父、稚野毛二派皇子の曽祖父、忍坂大中姫・[[衣通姫]]の高祖父。阿波君らの祖(旧事本紀)。* [[宮簀媛]](みやずひめ、美夜受比売) - 系譜には記されず、物語にのみ記される配偶者。[['''尾張氏]]'''の娘。子は無し。
『古事記』では、倭建命の曾孫(ひまご)の迦具漏比売命が景行天皇の妃となって[[彦人大兄命|大江王(彦人大兄)]]をもうけるとするなど矛盾があり、このことから景行天皇とヤマトタケルの親子関係に否定的な説がある<ref name="yoshii">[[吉井巌]] 『ヤマトタケル』[[学生社]] 吉井巌 『ヤマトタケル』学生社 1977年、2004年OD版、ISBN 4311201141</ref>。また、各地へ征討に出る[[雄略天皇]]などと似た事績があることから、[[4世紀]]から[[7世紀]]ごろの数人のヤマトの[[英雄時代|英雄]]を統合した架空の人物という説もある。また、各地へ征討に出る雄略天皇などと似た事績があることから、'''4世紀から7世紀ごろの数人のヤマトの英雄を統合した架空の人物'''という説もある<ref name=yoshii/><ref>[[井上光貞]] 『日本の歴史〈1〉神話から歴史へ』[[中央公論新社]][[[中公文庫]]]、新版[[2005年]]、ISBN 『日本の歴史〈1〉神話から歴史へ』中央公論新社[中公文庫]、新版2005年、ISBN 4122045479</ref>。 === 系図 ==={{皇室古墳時代}}
== 記録 ==
『[[古事記]]』と『[[日本書紀]]』『古事記』と『日本書紀』<ref>岩波書店日本古典文学大系本『古事記』、『日本書紀』による。</ref>の説話は、大筋は同じだが、主人公の性格や説話の捉え方や全体の雰囲気に大きな差がある。ここでは浪漫的要素が強く、豪胆な主人公や父天皇に疎まれる人間関係から来る悲劇性が濃い『古事記』の説話を中心に述べる。概ね、『日本書紀』の方が天皇賛美の傾向が強く、父の天皇に忠実で信頼も厚い(『日本書紀』の説話は、『古事記』との相違点のみ逐一示す)。
=== 西征 ===
[[ファイル:YamatoTakeru.jpg|thumb|ヤマトタケル([[菊池容斎]]画)]][[ファイル:Yamato Takeru at 16-crop.jpg|thumb|女装するヤマトタケル([[月岡芳年]]画)]]
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; 古事記
: 父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の違いから、小碓命は兄を捕まえ押し潰し、手足をもいで、薦に包み投げ捨て殺害する。そのため小碓命は父に恐れられ疎まれて、九州のクマソタケル([[熊襲]]建)兄弟の討伐を命じられる。わずかな従者も与えられなかった小碓命は、まず叔母の[[倭姫命|倭比売命]]が[[斎王]]を勤めた[[伊勢国|伊勢]]へ赴き女性の衣装を授けられる。このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった。が斎王を勤めた伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる。このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった。
; 日本書紀
: 兄殺しの話はなく、父天皇が平定した九州地方で再び叛乱が起き、16歳の小碓命を討伐に遣わしたとある。古事記と異なり倭姫の登場がなく、従者も与えられている。従者には美濃国の弓の名手である弟彦公が選ばれる。弟彦公は石占横立、尾張の田子稲置、乳近稲置を率いて小碓命のお供をしたという。兄殺しの話はなく、父天皇が平定した九州地方で再び叛乱が起き、16歳の小碓命を討伐に遣わしたとある。古事記と異なり倭姫の登場がなく、従者も与えられている。従者には'''美濃国'''の弓の名手である弟彦公が選ばれる。弟彦公は石占横立、'''尾張'''の田子稲置、乳近稲置を率いて小碓命のお供をしたという。
; 先代旧事本紀
: (景行天皇)二十年(中略)冬十月 遣日本武尊 令擊熊襲 時年十六歲 <small>按日本紀 當作二十七年</small><ref>[http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sendaikuji/sendaikuji07.htm 先代舊事本紀卷第七 天皇本紀]</ref>とあるのみ。
; 古事記
: その後、倭建命は山の神、河の神、また穴戸の神を平定し、[[出雲国|出雲]]に入り、その後、倭建命は山の神、河の神、また穴戸の神を平定し、出雲に入り、[[出雲建]]と親交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の[[大刀]]を偽物と交換して大刀あわせを申し込み、殺してしまう。そうして「やつめさす 出雲建が 佩ける大刀 つづらさは巻き さ身無しにあはれ」と“出雲建の大刀は、つづらがたくさん巻いてあって派手だが刃が無くては意味がない、可哀想に”と歌う。こうして各地や国を払い平らげて、朝廷に参上し復命する。と親交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の大刀を偽物と交換して大刀あわせを申し込み、殺してしまう。そうして「やつめさす 出雲建が 佩ける大刀 つづらさは巻き さ身無しにあはれ」と“出雲建の大刀は、つづらがたくさん巻いてあって派手だが刃が無くては意味がない、可哀想に”と歌う。こうして各地や国を払い平らげて、朝廷に参上し復命する。
; 日本書紀
: [[崇神天皇]]の条に崇神天皇の条に[[出雲振根]]と弟の[[飯入根]]の物語として、酷似した話があるが、日本武尊の話としては出雲は全く登場しない。熊襲討伐後は毒気を放つ吉備の穴済の神や難波の柏済の神を殺して、水陸の道を開き、天皇の賞賛と寵愛を受ける。
=== 東征 ===
; 古事記
: 西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は倭建命に比比羅木之八尋矛を授け、吉備臣の祖先である御鋤友耳建日子をお伴とし、重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は再び倭比売命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭比売命は倭建命に[[伊勢神宮]]にあった神剣、西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は倭建命に比比羅木之八尋矛を授け、吉備臣の祖先である御鋤友耳建日子をお伴とし、重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は再び倭比売命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭比売命は倭建命に伊勢神宮にあった神剣、[[天叢雲剣|草那藝剣]](くさなぎのつるぎ)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う。
; 日本書紀
: 当初、東征の将軍に選ばれた大碓命は怖気づいて逃げてしまい、かわりに日本武尊が立候補する。天皇は斧鉞を授け、「お前の人となりを見ると、身丈は高く、顔は整い、大力である。猛きことは雷電の如く、向かうところ敵なく攻めれば必ず勝つ。形は我が子だが本当は神人(かみ)である。この天下はお前の天下だ。この位(=天皇)はお前の位だ。」と話し、最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、お伴に[[吉備武彦]]と[[大伴武日]]連を、料理係りに七掬脛を選ぶ。出発した日本武尊は伊勢で倭姫命より草薙剣を賜る。
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[[File:Yamamoto Takeru no mikoto between burning grass.jpg|thumb|ヤマトタケル([[歌川国芳]]画)]]
; 古事記
: [[相模国|相模]]の国で、[[相武国造]]に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭う。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那藝剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて炎を退ける。生還した倭建命は[[国造]]らを全て斬り殺して死体に火をつけ焼いた。そこで、そこを焼遣(やきづ=焼津)という。相模の国で、相武国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭う。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那藝剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて炎を退ける。生還した倭建命は'''国造らを全て斬り殺して'''死体に火をつけ焼いた。そこで、そこを焼遣(やきづ=焼津)という。
; 日本書紀
: [[駿河国|駿河]]が舞台で火攻めを行うのは賊だが大筋はほぼ同じで、[[焼津市|焼津]]の地名の起源を示す。ただし、本文中では火打石で迎え火を付けるだけで、草薙剣で草を掃う記述はない。注記で天叢雲剣が独りでに草を薙ぎ掃い、草薙剣と名付けたと説明される。火打石を叔母に貰った記述はない。駿河が舞台で火攻めを行うのは賊だが大筋はほぼ同じで、焼津の地名の起源を示す。ただし、本文中では火打石で迎え火を付けるだけで、草薙剣で草を掃う記述はない。注記で天叢雲剣が独りでに草を薙ぎ掃い、草薙剣と名付けたと説明される。火打石を叔母に貰った記述はない。
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; 古事記
: 相模から[[上総国|上総]]に渡る際、[[走水神社 (横須賀市)|走水]]の海([[横須賀市]])の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。そこで、后の相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。そこで、后の[[弟橘媛|弟橘比売]]が自ら命に替わって入水すると、波は自ずから凪いで、一行は無事に上総国に渡る事ができた。それから倭建命はこの地(現在の[[木更津市]]と言われている)にしばらく留まり弟橘姫のことを思って歌にした。が自ら命に替わって入水すると、波は自ずから凪いで、一行は無事に上総国に渡る事ができた。それから倭建命はこの地(現在の木更津市と言われている)にしばらく留まり弟橘姫のことを思って歌にした。
入水の際に媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠む。
{{Quotation|<blokquote>
原文: 佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母
訳: ''相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけて下さったあなたよ……''
}}</blokquote>
: 弟橘比売は、倭健命の思い出を胸に、幾重もの畳を波の上に引いて海に入るのである。七日後、比売の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた。
; 日本書紀
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[[ファイル:Sakaorimiya zenkei.jpg|thumb|「酒折宮」に比定される可能性のある現在の酒折宮([[山梨県]][[甲府市]]酒折)]]
; 古事記
: その後倭建命は、荒ぶる蝦夷たちをことごとく服従させ、また山や河の荒ぶる神を平定する。[[足柄坂]](神奈川・静岡県境)の神の白い鹿を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘比売を思い出し、「その後倭建命は、荒ぶる蝦夷たちをことごとく服従させ、また山や河の荒ぶる神を平定する。足柄坂(神奈川・静岡県境)の神の白い鹿を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘比売を思い出し、「'''吾妻はや'''」(わが妻よ……)と三度嘆いた。そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。また[[甲斐国]]の[[酒折宮]]で[[連歌]]の発祥とされる「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、「日々並べて(かがなべて) 」(わが妻よ……)と三度嘆いた。そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。また甲斐国の酒折宮で連歌の発祥とされる「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」と下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。その後、[[信濃国|科野]](しなの=長野県)で坂の神を服従させ、倭建命は[[尾張国|尾張]]に入る。日には十日を」と下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。その後、科野(しなの=長野県)で'''坂の神'''を服従させ、倭建命は尾張に入る。
; 日本書紀
: ルートが大きく異なる。上総からさらに海路で北上し、北上川流域(宮城県)に至る。[[陸奥国]]に入った日本武尊は船に大きな鏡を掲げていた。[[蝦夷]]の首魁の島津神・国津神らはその威勢を恐れ、拝礼した。日本武尊が「吾は是、[[現人神]]の子なり」と告げると蝦夷らは慄き、自ら縛につき服従した。そして日本武尊はその首魁を捕虜とし従身させた。蝦夷平定後、日高見国より帰り西南にある常陸を経て『古事記』同様に、甲斐酒折宮へ入り、「新治…」を詠んだあと、武蔵(東京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って碓日坂(群馬・長野県境。現在の場所としては碓氷峠説と鳥居峠説とがある)で、「あづまはや……」と嘆く。ここで吉備武彦を越(北陸方面)に遣わし、日本武尊自身は信濃(長野県)に入る。信濃の山の神の白い鹿を蒜で殺した後、白い犬が日本武尊を導き美濃へ出る。ここで越を周った吉備武彦と合流して、尾張に到る。ルートが大きく異なる。上総からさらに海路で北上し、北上川流域(宮城県)に至る。陸奥国入った日本武尊は船に大きな鏡を掲げていた。蝦夷の首魁の島津神・国津神らはその威勢を恐れ、拝礼した。日本武尊が「吾は是、現人神の子なり」と告げると蝦夷らは慄き、自ら縛につき服従した。そして日本武尊はその首魁を捕虜とし従身させた。蝦夷平定後、日高見国より帰り西南にある常陸を経て『古事記』同様に、甲斐酒折宮へ入り、「新治…」を詠んだあと、武蔵(東京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って碓日坂(群馬・長野県境。現在の場所としては碓氷峠説と鳥居峠説とがある)で、「あづまはや……」と嘆く。ここで吉備武彦を越(北陸方面)に遣わし、日本武尊自身は信濃(長野県)に入る。信濃の山の神の'''白い鹿'''を蒜で殺した後、'''白い犬'''が日本武尊を導き美濃へ出る。ここで越を周った吉備武彦と合流して、尾張に到る。
'''常陸国風土記'''
: 倭武天皇もしくは倭建天皇と表記される。巡幸に関わる記述が17件記述されている。従順でない当麻の郷の佐伯の鳥日子や芸都の里の国栖の寸津毘古を討つ話はあるが、殺伐な事件はこの2件のみで、他は全て狩りや水を飲み御膳を食すなど、その土地の服属を確認を行っている。
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[[ファイル:Mount Ibuki top 2011-03-06.jpg|thumb|right|250px|伊吹山頂の日本武尊像]]
; 古事記
: 尾張に入った倭建命は、かねてより婚約していた美夜受比売が[[月経|生理]]中であることを知り、次のように歌う。尾張に入った倭建命は、かねてより婚約していた美夜受比売が生理中であることを知り、次のように歌う。
: 「ひさかたの 天(あめ)の香具山(かぐやま) とかまに さ渡る鵠(くび) ひはぼそ たわや腕(がひな)を まかむとは あれはすれど さ寝むとは あれは思へど ながけせる おすひの裾に 月たちにけり」“天の香具山の上を飛ぶ白鳥のような、白くか細いあなたの腕を、私は抱こうとするが、あなたと寝たいと思うのだが、あなたの着物の裾には月(=月経)が見えているよ”
: 美夜受比売は答えて次のように歌った。
: 「高光る 日の御子(みこ) やすみしし わが大君(おおきみ) あらたまの 年がきふれば あらたまの 月はきへゆく うべな うべな 君待ちがたに わがけせる おすひの裾に 月たたなむよ」“ 高く光り輝く太陽の皇子よ。国を八隅まで支配される私の大君様。新しい年が来て、新しい月がまた去って行く。そうです、そうですとも、こんなにも、あなたを待ちこがれていたのだから、わたしの着物の裾に月が出たのは当然です ”
: 二人はそのまま結婚する。そして倭建命は、伊勢の神剣である草那藝剣を美夜受比売に預けたまま、[[伊吹山]](岐阜・滋賀県境)の神を素手で討ち取ろうとして出立する。二人はそのまま結婚する。そして倭建命は、伊勢の神剣である草那藝剣を美夜受比売に預けたまま、伊吹山(岐阜・滋賀県境)の神を素手で討ち取ろうとして出立する。
; 日本書紀
: 経血が詠まれた和歌はないが、宮簀媛との結婚や、草薙剣を置いて、伊吹山の神を討ちに行くのは同様。
; 古事記
: 素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、牛ほどの大きさの白い大猪が現れる。倭建命は「この白い猪は神の使者だろう。今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」と[[言挙げ]]をし、これを無視するが、実際は猪は神そのもので正身であった。神は大氷雨を降らし、命は失神する。山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓の[[関ケ原町]]また[[米原市]]とも)で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、牛ほどの大きさの'''白い大猪'''が現れる。倭建命は「この白い猪は神の使者だろう。今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」と言挙げをし、これを無視するが、実際は猪は神そのもので正身であった。神は大氷雨を降らし、命は失神する。山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓の関ケ原町また米原市とも)で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。: 弱った体で大和を目指して、当芸・[[杖衝坂]]・尾津・三重村(岐阜南部から三重北部)と進んで行く。地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情が描かれる。そして、能煩野([[三重県]][[亀山市]])に到った倭建命は「倭は国のまほろば たたなづく 杖衝坂・尾津・三重村(岐阜南部から三重北部)と進んで行く。地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情が描かれる。そして、能煩野(三重県亀山市)に到った倭建命は「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」から、「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。
; 日本書紀
: 伊吹山の神の化身の大蛇は道を遮るが、日本武尊は「主神を殺すから、神の使いを相手にする必要はない」と、大蛇をまたいで進んでしまう。神は雲を興し、氷雨を降らせ、峯に霧をかけ谷を曇らせた。そのため日本武尊は意識が朦朧としたまま下山する。居醒泉でようやく醒めた日本武尊だが、病身となり、尾津から能褒野へ到る。ここから伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、天皇には吉備武彦を遣わして「自らの命は惜しくはありませんが、ただ御前に仕えられなくなる事のみが無念です」と奏上し、自らは能褒野の地で亡くなった。時に30歳であったという。国偲び歌はここでは登場せず、父の景行天皇が九州平定の途中に日向で詠んだ歌とされ、倭建命の辞世とする古事記とほぼ同じ内容だが印象が異なる。
; 古事記
: 倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后たちや御子たちであった。彼らは[[白鳥陵|陵墓]]を築いて周囲を這い回り、「なづきの田の 稲がらに 稲がらに 葡倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后たちや御子たちであった。彼らは陵墓を築いて周囲を這い回り、「なづきの田の 稲がらに 稲がらに 葡(は)ひ廻(もとほ)ろふ 野老蔓(ところづら)」“お墓のそばの田の稲のもみの上で、ところづら(蔓草)のように這い回って、悲しんでいます”との歌を詠んだ。
: すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后や御子たちは竹の切り株で足が傷つき痛めても、その痛さも忘れて泣きながら、その後を追った。その時には、「浅小竹原(あさじのはら) 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな」 “小さい竹の生えた中を進むのは、竹が腰にまとわりついて進みにくい。ああ、私たちは、あなたのように空を飛んで行くことができず、足で歩くしかないのですから”と詠んだ。
: また、白鳥を追って海に入った時には 「海が行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海がは いさよふ」“海に入って進むのは、海の水が腰にまとわりついて進みにくい。まるで、大きな河に生い茂っている水草のように、海ではゆらゆら足を取られます”と詠んだ。
: 白鳥が磯伝いに飛び立った時は 「浜つ千鳥(ちどり) 浜よは行かず 磯づたふ」“浜千鳥のように、あなたの魂は私たちが追いかけやすい浜辺を飛んで行かず、磯づたいに飛んで行かれるのですね”と詠んだ。
: これら4つの歌は「大御葬歌」(天皇の葬儀に歌われる歌<ref>「大御葬歌」は[[昭和天皇]]の大喪の礼でも詠われた。実際はモガリの宮(死者を埋葬の前に一定期間祭って置くところ)での再生を願ったり、魂を慕う様子を詠った歌だと思われる。「大御葬歌」は昭和天皇の大喪の礼でも詠われた。実際はモガリの宮(死者を埋葬の前に一定期間祭って置くところ)での再生を願ったり、魂を慕う様子を詠った歌だと思われる。</ref>)となった。
; 日本書紀
: 父天皇は寝食も進まず、百官に命じて日本武尊を能褒野陵に葬るが、日本武尊は白鳥<ref>当時の白鳥は現在の[[ハクチョウ]]以外にも、[[白鷺]]など白い鳥全般を指した。</ref>となって、大和を指して飛んだ。棺には衣だけが空しく残され、屍骨(みかばね)はなかったという。
; 古事記
: 白鳥は伊勢を出て、[[河内国|河内]]の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまう。白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまう。
; 日本書紀
: 白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原([[奈良県]][[御所市]])→河内古市([[大阪府]][[羽曳野市]])とされ、その3箇所に陵墓を作ったとする。こうして白鳥は天に昇った。その後天皇は、武部([[健部]]・[[建部]])を日本武尊の御名代とした。白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)とされ、その3箇所に陵墓を作ったとする。こうして白鳥は天に昇った。その後天皇は、武部(健部・建部)を日本武尊の御名代とした。
:『古事記』と異なり、大和に飛来する点が注目される。
== 墓 ==
[[File:Nobono Otsuka Kofun haisho.JPG|thumb|200px|right|{{center|日本武尊 [[能褒野王塚古墳|能褒野墓]]<br />([[三重県]][[亀山市]])}}]][[File:Kotohikihara Tomb, haisho.jpg|thumb|200px|right|{{center|日本武尊 (大和)白鳥陵<br />([[奈良県]][[御所市]])}}]][[File:Karusato Otsuka Kofun, haisho.jpg|thumb|200px|right|{{center|日本武尊 [[軽里大塚古墳|(河内)白鳥陵]]<br />([[大阪府]][[羽曳野市]])}}]][[陵墓|墓]]は、[[宮内庁]]により次の3ヶ所に治定されている墓は、宮内庁により次の3ヶ所に治定されている<ref>『宮内庁書陵部陵墓地形図集成』 学生社、1999年、巻末の「歴代順陵墓等一覧」表。</ref>(能褒野墓に白鳥2陵を付属)。* '''能褒野墓'''(のぼののはか、[[三重県]][[亀山市]]田村町、{{Coord|34|53|4.36|N|136|28|55.09|E|region:JP-24|name=能褒野墓(日本武尊墓)}})(のぼののはか、三重県亀山市田村町*: 宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「[[能褒野王塚古墳]]」。墳丘長90メートルの[[前方後円墳]]で、[[4世紀]]末の築造と推定される。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「能褒野王塚古墳」。墳丘長90メートルの前方後円墳で、4世紀末の築造と推定される。* '''白鳥陵'''(しらとりのみささぎ、[[奈良県]][[御所市]]富田、{{Coord|34|26|43.92|N|135|45|1.25|E|region:JP-24|name=白鳥陵(日本武尊墓)}})(しらとりのみささぎ、奈良県御所市富田)*: 宮内庁上の形式は長方丘。かつては「権現山」・「天王山」とも{{Sfn|<ref>白鳥陵(国史)}}</ref>。幅約28メートル×約45メートルの長方丘とされる{{Sfn|<ref>白鳥陵(国史)}}。一説には[[円墳]]</ref>。一説には円墳<ref name="大和白鳥陵"/>。* '''白鳥陵'''(しらとりのみささぎ、[[大阪府]][[羽曳野市]]軽里、{{Coord|34|33|4.61|N|135|36|14.00|E|region:JP-24|name=白鳥陵(日本武尊墓)}})(しらとりのみささぎ、大阪府羽曳野市軽里)*: 宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「[[軽里大塚古墳]]」・「前の山古墳」・「白鳥陵古墳」。墳丘長190メートルの前方後円墳で、[[5世紀]]後半の築造と推定される。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「軽里大塚古墳」・「前の山古墳」・「白鳥陵古墳」。墳丘長190メートルの前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定される。
=== 古典史料の記述 ===
!地域!!日本書紀!!古事記!!延喜式!!現在の治定
|-
|'''伊勢'''||能褒野陵||能煩野に陵||能裒野墓||[[能褒野王塚古墳|能褒野墓]]
|-
|'''大和'''||琴弾原に陵||(記載なし)||(記載なし)||白鳥陵
|-
|'''河内'''||旧市邑に陵||志幾に陵<br />(白鳥御陵)||(記載なし)||[[軽里大塚古墳|白鳥陵]]
|-
|'''備考'''||3陵の総称として<br />「白鳥陵」とする|| || ||
* 日本書紀
*: 景行天皇40年是歳条では、日本武尊は「'''能褒野'''」で没し、それを聞いた天皇は官人に命じて伊勢国の「能褒野陵(のぼののみささぎ)」に埋葬させた。しかし日本武尊は白鳥となって飛び立ち、倭の'''琴弾原'''(ことひきはら)、次いで河内の'''旧市邑'''(ふるいちのむら、古市邑)に留まったのでそれぞれの地に陵が造られた。そしてこれら3陵をして「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」と称し、これらには日本武尊の衣冠が埋葬されたという<ref name="日本書紀"/><ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。
*: [[仁徳天皇]]60年条仁徳天皇60年条<ref group="原">『日本書紀』仁徳天皇60年10月条。</ref>{{Sfn|亀山市史 通史編 第3章第1節}}では、「白鳥陵」(上記3陵を指すものか第3章第1節では、「白鳥陵」(上記3陵を指すものか<ref name="亀山市史 第3章第1節">[http://kameyamarekihaku.jp/sisi/tuusiHP/kochuusei/honbun/03/01/pdflive.html 「通史編 第3章第1節 ヤマトタケル伝承と鈴鹿地域」][http://kameyamarekihaku.jp/sisi/index.html 『亀山市史』](IT市史、亀山市歴史博物館)。</ref>)は空である旨と、天皇が白鳥陵の陵守廃止を思い止まった旨が記されている<ref>『新編日本古典文学全集 3 日本書紀 (2)』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、pp. 66-67。</ref><ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。
* 古事記
*: 景行天皇記では、倭建命は伊勢の「'''能煩野'''」で没したとし、倭建命の后・子らが能煩野に下向して陵を造ったとする。しかし倭建命は白い千鳥となって伊勢国から飛び立ち、河内国の'''志幾'''(しき)に留まったので、その地に陵を造り「白鳥御陵(しらとりのみささぎ)」と称したという<ref name="古事記"/><ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。
* [[延喜式]]([[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立)延喜式(延長5年(927年)成立)*: [[諸陵寮]]([[諸陵式]])諸陵寮(諸陵式)<ref group="原">『延喜式』巻21(治部省)諸陵寮条。</ref>では「'''能裒野墓'''」の名称で記載され、[[伊勢国]][[鈴鹿郡]]の所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する(伊勢国では唯一の陵墓){{Sfn|」の名称で記載され、伊勢国鈴鹿郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する(伊勢国では唯一の陵墓)<ref>能褒野墓(国史)}}</ref><ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。一方で白鳥陵の記載はない。
通常「陵」の字は天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓、「墓」の字はその他皇族の墓に使用されるが、『日本書紀』や『古事記』で「陵」と見えるのはヤマトタケルが天皇に準ずると位置づけられたことによる<ref name="日本書紀"/>(現在は能褒野のみ「墓」の表記)。
ヤマトタケルの実在性が低いとする論者からは、ヤマトタケルの墓はヤマトタケル伝説の創出に伴って創出されたとする説を唱えている<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。確かな史料の上では、[[持統天皇]]5年([[691年]])。確かな史料の上では、持統天皇5年(691年)<ref group="原">『日本書紀』持統天皇5年(691年)10月乙巳(8日)条。</ref>において有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『[[帝紀]]』や『[[旧辞]]』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説があるにおいて有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。またその際には、日本武尊墓(伊勢)・[[彦五瀬命]]墓(紀伊)・[[五十瓊敷入彦命]]墓(和泉)・[[菟道稚郎子]]墓(山城)をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある<ref>[[仁藤敦史]] 「記紀から読み解く、巨大前方後円墳の編年と問題点」『古代史研究の最前線 天皇陵』 洋泉社、2016年、pp. 13-16。</ref>。一方、ヤマトタケルの実在を認める論者からは、ヤマトタケルが活動した年代や築造後すぐに管理が放棄されていることなどから、現[[允恭天皇]]陵に治定されている[[津堂城山古墳]]を真陵と見る説が唱えられている。一方、ヤマトタケルの実在を認める論者からは、ヤマトタケルが活動した年代や築造後すぐに管理が放棄されていることなどから、現允恭天皇陵に治定されている津堂城山古墳を真陵と見る説が唱えられている<ref>[[宝賀寿男]]「第三章 倭五王らの大王墓」『巨大古墳と古代王統譜』、2005年、150宝賀寿男「第三章 倭五王らの大王墓」『巨大古墳と古代王統譜』、2005年、150-152頁。</ref>。
その後、[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])その後、大宝2年(702年)<ref group="原">『続日本紀』大宝2年(702年)八月癸卯(8日)条。</ref>には「震倭建命墓。遣使祭之」と見え、鳴動(落雷<ref>『続日本紀 上 全現代語訳(講談社学術文庫1030)』 講談社、1992年、p. 52。</ref>、別説に地震<ref>[[森浩一]] 『天皇陵古墳への招待(筑摩選書23)』 筑摩書房、2011年、pp. 195-203。</ref>)のあったヤマトタケルの墓(能褒野墓か)に使いが遣わされている<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。さらに『[[大宝律令|大宝令]]』官員令の別記(付属法令)。さらに『大宝令』官員令の別記(付属法令)<ref group="原">『令集解』巻2(職員令)諸陵司 諸陵及陵戸名籍事条所引『別記』逸文。</ref>には、伊勢国に借墓守3戸の設置が記されており、[[8世紀]]初頭には「能裒野墓」が諸陵司の管轄下にあったと見られているには、伊勢国に借墓守3戸の設置が記されており、8世紀初頭には「能裒野墓」が諸陵司の管轄下にあったと見られている<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。その後、前述の『延喜式』では白鳥三陵のうち「能裒野墓」のみが記載され、[[10世紀]]前半頃までの管理・祭祀の継続が認められる。その後、前述の『延喜式』では白鳥三陵のうち「能裒野墓」のみが記載され、10世紀前半頃までの管理・祭祀の継続が認められる<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。
=== 後世の治定 ===
上記の記述の一方、後世には墓の所伝は失われ所在不明となった。能褒野墓・大和白鳥陵・河内白鳥陵それぞれに関して、治定されるに至った経緯は次の通り。
* 伊勢の能褒野墓
*: 近世には[[白鳥塚古墳 (鈴鹿市)|白鳥塚]](鈴鹿市石薬師町)・武備塚(鈴鹿市長沢町)・双子塚(鈴鹿市長沢町)の3説があり、明治9年([[1876年]])までには[[教部省]]により白鳥塚に定められたが、[[明治]]12年([[1879年]])に宮内省(現・[[宮内庁]])により3説のいずれでもない現墓の丁子塚([[能褒野王塚古墳]])に改定された近世には白鳥塚(鈴鹿市石薬師町)・武備塚(鈴鹿市長沢町)・双子塚(鈴鹿市長沢町)の3説があり、明治9年(1876年)までには教部省により白鳥塚に定められたが、明治12年(1879年)に宮内省(現・宮内庁)により3説のいずれでもない現墓の丁子塚(能褒野王塚古墳)に改定された<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。詳細は「[[能褒野王塚古墳]]」を参照。。詳細は「能褒野王塚古墳」を参照。*: なお「のぼの(能褒野/能煩野/能裒野)」とは、[[鈴鹿山脈]]の野登山(ののぼりやま)山麓を指す地名と推測される能裒野)」とは、鈴鹿山脈の野登山(ののぼりやま)山麓を指す地名と推測される<ref name="日本書紀"/><ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。この「のぼの」の地が選ばれた背景としては、化身の白鳥が「天空にのぼった」という物語が既に存在し、後世にその物語への付会として「のぼの」の地名が結び付けられたとする説が挙げられている<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。
* 大和の白鳥陵
*: 『[[古事記伝]]』では現陵に関する記述が見える『古事記伝』では現陵に関する記述が見える<ref name="大和白鳥陵"/>。明治9年([[1876年]])に[[教部省]]により考定された{{Sfn|。明治9年(1876年)に教部省により考定された<ref>白鳥陵(国史)}}。伊勢・河内に比べ小規模であることなどもあり、別に[[掖上鑵子塚古墳]](奈良県御所市柏原)に比定する説もある{{Sfn|</ref>。伊勢・河内に比べ小規模であることなどもあり、別に掖上鑵子塚古墳(奈良県御所市柏原)に比定する説もある<ref>白鳥陵(国史)}}</ref><ref name="大和白鳥陵">「白鳥陵」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』 平凡社、1981年。</ref>。「[[白鳥陵]]」も参照。。「白鳥陵」も参照。
* 河内の白鳥陵
*: 明治8年([[1875年]])に教部省により伊岐宮(現・[[白鳥神社 (羽曳野市)|白鳥神社]])の白鳥神社古墳に考定されたが、明治13年([[1880年]])に現陵([[軽里大塚古墳]])に教部省により伊岐宮(現・白鳥神社)の白鳥神社古墳に考定されたが、明治13年(1880年)に現陵(軽里大塚古墳/前の山古墳)に改定された{{Sfn|<ref>白鳥陵(国史)}}</ref>。現陵は、『河内国陵墓図』では[[木梨軽皇子|木梨軽太子]]の「軽之墓」と記されている{{Sfn|<ref>白鳥陵(国史)}}。かつては西方の[[峯ヶ塚古墳]]に比定する説もあったという</ref>。かつては西方の峯ヶ塚古墳に比定する説もあったという<ref>「前の山古墳」『日本歴史地名大系 28 大阪府の地名』 平凡社。</ref>。「[[白鳥陵]]」および「[[軽里大塚古墳]]」も参照。。「白鳥陵」および「軽里大塚古墳」も参照。*: 白鳥伝説のモデルとも考えられる[[水鳥型埴輪]]が出土したことと築造順から河内・[[古市古墳群]]最初の大王墓である[[津堂城山古墳]]を真陵する説もある。白鳥伝説のモデルとも考えられる水鳥型埴輪が出土したことと築造順から河内・古市古墳群最初の大王墓である津堂城山古墳を真陵する説もある。
== 後裔氏族 ==
[[ファイル:Yamato Takeru no Mikoto by Shigeru Aoki.jpg|サムネイル|[[青木繁]]「日本武尊」1906年]]
『日本書紀』の日本武尊系譜によれば、ヤマトタケルは犬上君・[[建部氏|武部君]]([[稲依別王]]後裔)、讚岐綾君([[武卵王]]後裔)、伊予別君([[十城別王]]後裔)ら諸氏族の祖とされる。
『古事記』の倭建命系譜によれば、ヤマトタケルは犬上君・[[建部氏|建部君]](稲依別王後裔)、讚岐綾君・伊勢之別・登袁之別・麻佐首・宮首之別{{sub|宮道之別か}}(建貝児王後裔)、鎌倉之別・小津石代之別・漁田之別(足鏡別王後裔)ら諸氏族の祖とされる。(稲依別王後裔)、讚岐綾君・伊勢之別・登袁之別・麻佐首・宮首之別(宮道之別か)(建貝児王後裔)、鎌倉之別・小津石代之別・漁田之別(足鏡別王後裔)ら諸氏族の祖とされる。
『[[新撰姓氏録]]』では、次の氏族が後裔として記載されている。『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
* 左京皇別 犬上朝臣 - 出自は諡景行皇の子の日本武尊。
* 右京皇別 [[建部氏|建部公]] - 犬上朝臣同祖。日本武尊の後。
* 和泉国皇別 聟本 - 倭建尊三世孫の大荒田命の後。
なお、『日本書紀』景行天皇40年条では日本武尊のため「武部(たけるべ)」を定めると見え、これを基に建部(武部)をヤマトタケルの[[名代|名代部]]とする説もあったが、事実としては名代部ではなく軍事的職業部であったとされるなお、『日本書紀』景行天皇40年条では日本武尊のため「武部(たけるべ)」を定めると見え、これを基に建部(武部)をヤマトタケルの名代部とする説もあったが、事実としては名代部ではなく軍事的職業部であったとされる<ref>「建部」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。</ref><ref>「建部」『日本古代氏族事典 新装版』 雄山閣、2015年。</ref><ref name="日本書紀"/>。
== 考証 ==
{{出典の明記|date=2018年4月|section=1}}<sup>''(出典の明記、2018年4月)''</sup>
=== ヤマトタケル説話の構成 ===
[[ファイル:加佐登神社 - 日本武尊像2.jpg|thumb|right|200px|日本武尊の石像<br />(三重県鈴鹿市・加佐登神社)]]
ヤマトタケルの物語は、[[吉井巌]]が指摘したように、主人公の名前が各場面で変わるのが特徴である。また、説話ごとに相手役の女性も異なる。加えて系図も非常に長大で、その人物や説話の形成には様々な氏族や時代の要請が関連したとわかる。
== 関連項目 ==
{{commonscat|Yamato Takeru}}
{{Wikiquote|日本神話}}
* [[倭姫命]]
* [[建部氏]]
*[[武尊神社]](曖昧さ回避)
* [[帥升]]
== 注 ==
<references group="注"/>
== 参照 ==