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『文選』の撰者である昭明太子蕭統は、南朝梁の武帝蕭衍の長男として生まれた。武帝は南朝斉の宗室の出身であり、学問・文才にも長じ、即位前は竟陵王蕭子良のもとで、沈約・謝朓ら当時を代表する文学仲間である「竟陵八友」の一人に数えられていた。太子はこのような学問好きな父の方針により、他の兄弟と同じく、幼い頃から当代一流の学者・文人を教師として学問や文学を学んだ。こうした環境のもとで育てられた太子は、学問と文学を愛好するのみならず、文化の保護や育成にも心を砕くようになった。太子の居所である東宮には約3万巻もの書が集められ、その周囲には多数の学者・文人たちが、学問研究や著作活動に従事することになった。
『文選』が編纂されたのには、こうした昭明太子の文化的環境が大きな役割を果たしていた。『文選』の撰者名は昭明太子一人に擬されているが、実際の編纂には[[劉孝綽]]ら彼の周囲にいた[[文人]]たちが関わっていたとされている『文選』が編纂されたのには、こうした昭明太子の文化的環境が大きな役割を果たしていた。『文選』の撰者名は昭明太子一人に擬されているが、実際の編纂には劉孝綽ら彼の周囲にいた文人たちが関わっていたとされている<ref>[[空海]]『[[文鏡秘府論]]』南巻には「南朝梁の昭明太子蕭統の劉孝綽等と『文選』を撰集するが如きに至りては、自ら謂(おも)へらく『天地を畢(つ)くし、諸(これ)を日月に懸く』と」とある。空海『文鏡秘府論』南巻には「南朝梁の昭明太子蕭統の劉孝綽等と『文選』を撰集するが如きに至りては、自ら謂(おも)へらく『天地を畢(つ)くし、諸(これ)を日月に懸く』と」とある。</ref>。
== 構成(李善注の巻数による) ==
== 後世における受容と注釈 ==
隋唐以降、官吏登用に[[科挙]]が導入され、詩文の創作が重視されると、『文選』は科挙の受験者に詩文の制作の模範とされ、代々重視されてきた。唐の詩人[[杜甫]]は『文選』を愛読し、「熟精せよ文選の理」(「宗武生日」)と息子に教戒の言葉まで残している。また[[宋 (王朝)|宋]]の時代には「文選爛すれば、[[秀才 (科挙)|秀才]]半ばす」(『文選』に精通すれば、科挙は半ば及第)という俗謡が生まれている隋唐以降、官吏登用に科挙が導入され、詩文の創作が重視されると、『文選』は科挙の受験者に詩文の制作の模範とされ、代々重視されてきた。唐の詩人杜甫は『文選』を愛読し、「熟精せよ文選の理」(「宗武生日」)と息子に教戒の言葉まで残している。また宋の時代には「文選爛すれば、秀才半ばす」(『文選』に精通すれば、科挙は半ば及第)という俗謡が生まれている<ref>南宋の[[陸游]]の『老学庵筆記』より南宋の陸游の『老学庵筆記』より</ref>。このため『文選』は早くから研究され、多くの人により注釈がつけられた。
『文選』の注釈として文献上最も古いものは、隋の[[蕭該]]([[蕭恢]]の孫で、昭明太子の従甥)の『文選音』である。少し後の隋唐の交代期には、[[揚州 (江蘇省)|江都]]の曹憲が『文選音義』を著した。曹憲のもとには魏模・公孫羅・許淹・[[李善 (唐)|李善]]ら多くの弟子が集まり、以後の「文選学」(「選学」)隆盛のきっかけとなった。『文選』の注釈として文献上最も古いものは、隋の蕭該(蕭恢の孫で、昭明太子の従甥)の『文選音』である。少し後の隋唐の交代期には、江都の曹憲が『文選音義』を著した。曹憲のもとには魏模・公孫羅・許淹・李善ら多くの弟子が集まり、以後の「文選学」(「選学」)隆盛のきっかけとなった。
曹憲の弟子の一人である李善は、浩瀚な知識を生かして『文選』に詳細な注釈をつけ、[[658年]]([[顕慶]]3年)、唐の[[高宗 (唐)|高宗]]に献呈した。これが『文選』注として最も代表的な「曹憲の弟子の一人である李善は、浩瀚な知識を生かして『文選』に詳細な注釈をつけ、658年(顕慶3年)、唐の高宗に献呈した。これが『文選』注として最も代表的な「'''李善注'''」である。李善注の特徴は、過去の典籍を引証することで、作品に用いられている言葉の出典とその語義を明らかにするという方法を用いていることにある。また李善が引用する書籍には現在では散佚しているものも多く、それらの書籍の実態を考証する際の貴重な資料にもなっている。
李善注の後の代表的な注釈としては、呂延済・劉良・張銑・[[呂向]]・李周翰の5人の学者が共同で執筆し、[[718年]]([[開元]]6年)、唐の[[玄宗 (唐)|玄宗]]に献呈された、いわゆる「李善注の後の代表的な注釈としては、呂延済・劉良・張銑・呂向・李周翰の5人の学者が共同で執筆し、718年(開元6年)、唐の玄宗に献呈された、いわゆる「'''五臣注'''」がある。五臣注の特徴は、李善注が引証に重きを置きすぎるあまり、時として語義の解釈がおろそかになる(「事を釈きて意を忘る」)ことに不満を持ち、字句の意味をほかの言葉で解釈する訓詁の方法を採用したことにある。そのため注釈として李善注とは異なる価値があるが、全体的に杜撰な解釈や誤りが多く、後世の評価では李善注に及ばないというのが一般的である。
宋代に入り[[木版印刷]]技術が普及すると、李善注と五臣注を合刻して出版した「宋代に入り木版印刷技術が普及すると、李善注と五臣注を合刻して出版した「'''六臣注'''」(「六家注」)が通行し<ref>六臣注は李善・五臣の順で、六家注は五臣・李善の順で注が並べられたものを指す。</ref>、元来の李善・五臣の単注本は廃れることとなった。現行の李善単注本は、[[南宋]]の[[尤袤]]が六臣注から李善注の部分を抜き出し(異説あり)、[[1181年]]([[淳熙]]8年)に刊行したものの系統であるとされる。これを[[清]]の胡克家が、諸本を比較して校勘を加えた上、[[嘉慶 (清)|嘉慶]]年間に覆刻した。この「、元来の李善・五臣の単注本は廃れることとなった。現行の李善単注本は、南宋の尤袤が六臣注から李善注の部分を抜き出し(異説あり)、1181年(淳熙8年)に刊行したものの系統であるとされる。これを清の胡克家が、諸本を比較して校勘を加えた上、嘉慶年間に覆刻した。この「'''胡刻本'''」が、今日最も標準的なテキストとして通行している。
このほか重要なものとして、日本に写本として伝わる『文選集注』(120巻、存23巻)がある。これは李善・五臣の注釈のほか、これらの注釈が通行することによって散佚した唐代の注釈が保存されており、『文選』研究にとって不可欠の資料となっている。
== 収録する主な作品 ==
太子の書いた『文選』の序文には、作品の収録基準を「事は沈思より出で、義は翰藻に帰す」とし、深い思考から出てきた内容を、すぐれた修辞で表現したと見なされた作品を収録したとある。また収録する分野についても、[[四部分類]]でいうところの経部・子部・史部太子の書いた『文選』の序文には、作品の収録基準を「事は沈思より出で、義は翰藻に帰す」とし、深い思考から出てきた内容を、すぐれた修辞で表現したと見なされた作品を収録したとある。また収録する分野についても、四部分類でいうところの経部・子部・史部<ref>ただし歴史評論の類(論・讃・序・述)は例外とする。</ref>を除く、集部に相当する文学作品をもっぱら選録の対象としている点で、文学の価値を明確に意識した総集となっている。下記の括弧内の数字は李善注60巻のうちの収録巻数である。
{{Wikisourcelang|zh|昭明文选|文選}}昭明文选、文選
*[[屈原]]「[[離騒]]」(32)
*[[宋玉]]「高唐賦」(19)「神女賦」(19)

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