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上述の通り、伝説では紀元前37年に建国したというが、実際には元鳳6年(紀元前75年)に玄菟郡が廃止された時、高句麗侯として自立したとみられている。紀元32年に高句麗侯は高句麗王に昇格したがこれは漢の朝廷から与えられた称号であり、自称としては伝説の通り紀元前37年に実質的に王であったとして問題ないと考えられている。『日本書紀』天智天皇紀では、668年の高句麗滅亡は仲牟王の建国からちょうど700年目であったとされ、逆算すると建国は紀元前32年となる。『新唐書』高麗伝、『唐会要』高句麗では高宗に問われた侍御史の賈言忠(賈曾の父、賈至の祖父)の言葉として、漢代の建国から滅亡まで900年とするが、王名は記していない。『三国史記』東明聖王本紀は上述のように建国を紀元前37年とする一方、宝蔵王本紀では新唐書と同様、漢代の建国から900年と記し、新羅本紀で文武王10年(670年)安勝を高句麗王に封じた冊命書では太祖の中牟王から800年と記している。
[[好太王碑]](広開土王碑)では[[好太王]]は鄒牟王の17世とする。これを17世孫の意味にとると、『三国史記』高句麗本紀に広開土王は東明聖王の12世孫とあるのと比べて5世代も多い。そこで『三国史記』は[[新羅]]王室に連なる[[慶州金氏]]の[[金富軾]]が編纂したものであり、新羅を持ち上げるために高句麗の建国年を新羅の自称建国年(実際には4世紀末から5世紀初頭)よりも後にしたとみる説もあったが、現在では碑文の17世は「17代目」の意味とするのが普通である好太王碑(広開土王碑)では好太王は鄒牟王の17世とする。これを17世孫の意味にとると、『三国史記』高句麗本紀に広開土王は東明聖王の12世孫とあるのと比べて5世代も多い。そこで『三国史記』は新羅王室に連なる慶州金氏の金富軾が編纂したものであり、新羅を持ち上げるために高句麗の建国年を新羅の自称建国年(実際には4世紀末から5世紀初頭)よりも後にしたとみる説もあったが、現在では碑文の17世は「17代目」の意味とするのが普通である<ref>そうすると『三国史記』は広開土王が第19代であるとしているので今度は逆に2代も少ない。これについて、『三国史記』の系譜伝承は何段階にもわかれて形成されたと推定されているが広開土王の時代にはまだ後世の『三国史記』の系譜伝承が完成しておらず、次大王と新大王が追加されていなかったと考えられている。</ref>。
== 建国神話 ==
「東明」を始祖にする建国神話・始祖伝説は、夫余・高句麗・[[百済]]に共通して見られるが、『三国史記』編纂の12世紀に『三国志』所引の東明王の夫余建国神話や日本の神武天皇の東征伝説を模倣して創作されたものと考えられている。特徴としては王の政治的権威の源泉を天に帰属させ、同時に農業生産を左右する河神の権威を主張することである。ここでは高句麗の建国神話を『三国史記』に基づいて記述する。「東明」を始祖にする建国神話・始祖伝説は、夫余・高句麗・百済に共通して見られるが、『三国史記』編纂の12世紀に『三国志』所引の東明王の夫余建国神話や日本の神武天皇の東征伝説を模倣して創作されたものと考えられている<ref group="私注">神武天皇関連で弓の名手だったのは、敵側の長髄彦である。しかも神武天皇とその同母兄弟達は「海神の息子」であることを権威の主張としているが、河神のことは何も言っていない。何でも「朝鮮の神話は日本神話の模倣」と言いたがる一人よがりな研究者がいるのだろうか?</ref>。特徴としては王の政治的権威の源泉を天に帰属させ、同時に農業生産を左右する河神の権威を主張することである。ここでは高句麗の建国神話を『三国史記』に基づいて記述する。
百済の温祚王朝は、夫余を姓とし、その王都も夫余と称している。かつて中国の東北地区にいた夫余が南下して、朝鮮半島の南西部に王朝を開いたことはおおよそ想像できるが、依拠する文献によって異同があり、いちがいには説明できない<ref name="豊田有恒100-101"/>。『三国史記』によると、百済の始祖の温祚王の父は、鄒牟あるいは朱蒙という<ref name="豊田有恒100-101"/>。朱蒙は、北夫余から逃れてきて、その土地の夫余王に非凡な才能を見込まれ、その王女を嫁わされ即位し、沸流、温祚という二王子が生まれるが、かつて朱蒙が、北夫余にいたころ先妻の生ませた太子が現れたため、二人の王子は身の危険を察して、国を脱出して十人の臣下を連れて、南へ向かった。やがて、漢山に至り、負児嶽に登り、都すべき土地を探そうとし、兄の沸流は海辺に留まるが、十人の臣下は諌めて、都を定めるべきだと進言したが、沸流は承知せずに、弥鄒忽という場所へ行った。そこで、弟の温祚が慰礼城に即位して、百済を建国した<ref name="豊田有恒100-101">豊田有恒, 2001-03-30, 魏志「東夷伝」における原初の北東アジア諸民族に関する論攷, 島根県立大学, 北東アジア研究 1, http://id.nii.ac.jp/1377/00001456/, page-100-101</ref>。負児嶽、弥鄒忽などの地名を現在の地名に比定するのは難しいが、朝鮮半島を縦断する夫余の南下を示す記録ではある。慰礼城が、大韓民国ソウル漢江の南の地域を指していることは、ほぼ異論のないところであり、ソウルオリンピック主競技場などがある江南に、初期百済の土城遺跡が保存されている<ref name="豊田有恒100-101"/>。これに関して、稲葉岩吉は「太康六年(285年)鮮卑の慕容氏に襲撃された扶餘の残黨は、長白山の東沃沮に逃げこんだというから、それが轉出して帯方に入ったものが、即ち百済であろう」と指摘している<ref>稲葉岩吉, 稲葉岩吉, 矢野仁一, 矢野仁一, 朝鮮史・満洲史, 平凡社, date1941</ref>。
== 夫余の建国伝説との比較 ==
{{See also|東明王|橐離国}}
 
『[[後漢書]]』夫余伝に見られる建国神話は、以下の通り。
{{quotation|{{lang|zh-Hant|初,北夷索離國王出行,其待兒於後妊身,王還,欲殺之。侍兒曰:“前見天上有氣,大如雞子,來降我,因以有身。”王囚之,後遂生男。王令置於豕牢,豕以口氣嘘之,不死。復徙於馬兰,馬亦如之。王以為神,乃听母收養,名曰東明。東明長而善射,王忌其猛,復欲殺之。東明奔走,南至掩淲水,以弓擊水,魚鳖皆聚浮水上,東明乘之得度,因至夫餘而王之焉。}}<br />

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