* 韓洪九は、「韓国では、単一民族という神話が広く信じられてきた。1960年代、70年代に比べいくぶん減ってはきたものの、社会の成員の皆が檀君祖父様の子孫だというのは、いまでもよく耳にする話である。われわれは本当に、檀君祖父様という一人の人物の子孫として血縁的につながった単一民族なのだろうか。答えは『いいえ』です。檀君の父桓雄とともに朝鮮半島にやって来た3000人の集団や、加えて檀君が治めていた民人たちの皆が皆、子をなさなかったわけはないのですから。彼らの子孫はどこに行ってしまったのでしょうか。箕子の子孫を名乗る人々の渡来から、高麗初期の渤海遺民の集団移住にいたるまで、我が国の歴史において大量に人々が流入した事例は数多く見られます。一方、契丹・モンゴル・日本・満州からの大規模な侵入と朝鮮戦争の残した傷跡もまた無視することはできません。こうしたことを考えれば、檀君祖父様という一人の人物の先祖から始まったのだとする単一民族意識は、一つの神話に過ぎないのです<ref>韓洪九, 2003-12-17, 韓洪九の韓国現代史 韓国とはどういう国か, 平凡社, isbn:978-4582454291, pages68-69</ref>」「いろいろな姓氏の族譜を見ても、祖先が中国から渡来したと主張する帰化姓氏が少なくありません。また韓国の代表的な土着の姓氏である金氏や朴氏を見ても、その始祖は卵から生まれたとされ、檀君の子孫を名乗ってはいません。これは、大部分の族譜が初めて編纂された朝鮮時代中期や後期までは、少なくとも檀君祖父様という共通の祖先をいただく単一民族であるという意識は別段なかったという証拠です。また、厳格な身分制が維持されていた伝統社会では、奴婢ら賤民と支配層がともに同じ祖先の子孫だという意識が存在する余地はないのです。共通の祖先から枝分かれした単一民族という意思が初めて登場したのは、わが国の歴史においていくらひいき目に見ても大韓帝国時代よりさかのぼることはあり得ません」「国が危機に直面したとき、檀君を掲げて民族の求心点としたのは、大韓帝国時代から日帝時代初期にかけての進歩的民族主義者の知恵でした」と評する<ref>韓洪九, 2003-12-17, 韓洪九の韓国現代史 韓国とはどういう国か, 平凡社, isbn:978-4582454291, page76</ref>。
* 武田幸男, 2000-08-01, 朝鮮史, 世界各国史, 山川出版社, ISBN:978-4634413207、には、「もとは平壌地方に伝わった固有の信仰であろうが、仏教的および道教的要素が含まれ、また熊をトーテムとし、シャーマニズム的な面もうかがえる複合的な神語で、かなり整合性につくりあげられたかたちになっている。その民族性をうかがうには、有効かもしれないが、それをとおして、歴史的事実を追究するのは容易ではない」とする<ref name="藤田 2003 79"/>。
* [[白鳥庫吉]]は、檀君朝鮮を「僧徒の妄説を歴史上の事実にした」ものだと主張した[[那珂通世]]の主張を支持している<ref>{{Harvnb|李|2005|p=230}}</ref>。
* [[林泰輔]]は、「その説が荒唐無稽で信じられない(其説荒唐ニシテ遽ニ信ズベカラズ)」と評している<ref name="李 2005 247">{{Harvnb|李|2005|p=247}}</ref><ref>{{Harvnb|池明観|1987|p=138}}</ref>。
* {{Cite book|和書|editor=武田幸男|editor-link=武田幸男|date=2000-08-01|title=朝鮮史|series=[[世界各国史]]|publisher=[[山川出版社]]|ISBN=978-4634413207|page=}}には、「もとは平壌地方に伝わった固有の信仰であろうが、[[仏教]]的および[[道教]]的要素が含まれ、また熊を[[トーテム]]とし、[[シャーマニズム]]的な面もうかがえる複合的な神語で、かなり整合性につくりあげられたかたちになっている。その民族性をうかがうには、有効かもしれないが、それをとおして、歴史的事実を追究するのは容易ではない」とする<ref name="藤田 2003 79"/>。
* [[朝鮮総督府]]が編纂した『[[朝鮮史 (歴史書)|朝鮮史]]』の委員会において、[[崔南善]]は「正篇や補篇の形で檀君と箕子に関する内容を編纂したらどうか」「檀君と箕子に関するものはその史実だけにこだわらず、[[思想]]や[[信仰]]の側面で発展してきたことなどをまとめて別篇として編纂したほうがいいだろう」と意見をすると<ref name="李 2005 244">{{Harvnb|李|2005|p=244}}</ref>、[[黒板勝美]]は「檀君と箕子は歴史的な実在の人物ではなく、神話の人物として、思想や信仰の側面で発展してきたわけだから、編年史として扱うのは無理だ」と応じた。対して崔南善は、「檀君と箕子が歴史的に実在していた人物なのか、神話の人物なのかは1つの研究課題にもなりますが、少なくとも朝鮮人の間では、これが歴史的事実として認識されてきたのです。しかし、本会が編纂する『[[朝鮮史 (歴史書)|朝鮮史]]』にこの内容を入れないということは、私たち[[朝鮮人]]としては非常に残念でなりません。ですから、本会編纂の『[[朝鮮史 (歴史書)|朝鮮史]]』が朝鮮人にあまり読まれていないわけです」と抗弁した。このように『[[朝鮮史 (歴史書)|朝鮮史]]』で檀君は非歴史的存在として扱われ、歴史上の居場所を失った<ref name="李 2005 244"/>。
* [[小田省吾]]は、「檀君朝鮮が半島古代史の一時期を画したと主張するのは、正しい歴史研究として認められない」と評しており<ref name="李 2005 247"/>、[[正史]]である『[[三国史記]]』([[1145年]])に記載がないこと、檀君を確認できる史料が[[13世紀]]の[[僧|仏僧]]による『[[三国遺事]]』([[1281年]])しかないことなどを、否定の論拠としている<ref>{{Cite book|和書|author=小田省吾|authorlink=小田省吾|date=1926-02|title=謂ゆる檀君伝説に就て|series=文教の朝鮮|publisher=[[朝鮮教育会]]|ISBN=|pages=34-35}}</ref>。