=== 中国国内のミャオ族 ===
中国国内での総人口は894万116人に達し、中国の少数民族としては、[[チワン族]](約1,617万人)、[[満州民族|満州族]](1,068万人)、[[回族]](981万人)に次ぎ四番目である。居住地域別人口は多い順番に並べると、[[貴州省]](429万9,954人)、[[湖南省]](192万1,495人)、[[雲南省]](104万3,535人)、[[重慶市]](50万2,421人)、[[広西チワン族自治区]](46万2,956人)、[[湖北省]](21万4,266人)、[[四川省]](14万7,526人)、[[広東省]](12万606人)、[[海南省]](6万1,264人)、[[浙江省]](5万3,418人)、[[江蘇省]](2万2,246人)、[[福建省]](2万2,065人)などである。山間盆地や斜面に集落を営む山地民である。焼畑を営んで陸稲や畑作物を作って移動を繰り返してきた人々と、[[棚田]]を巧妙に作って水稲稲作を行う定着した人々がいる。ただし、中国国内の「苗族」は、1949年の中華人民共和国の成立後に、民族識別調査を行った結果、政府から公認された「創られた民族」であり、政治的な統制と支配を行うための社会制度としての性格もある。山間盆地や斜面に集落を営む山地民である。焼畑を営んで陸稲や畑作物を作って移動を繰り返してきた人々と、棚田を巧妙に作って'''水稲稲作を行う'''定着した人々がいる。ただし、中国国内の「苗族」は、1949年の中華人民共和国の成立後に、民族識別調査を行った結果、政府から公認された「創られた民族」であり、政治的な統制と支配を行うための社会制度としての性格もある。
中国国内のミャオ族は漢・蔵(チベット)語族、苗・瑶(ヤオ)語派に属し、三つの方言集団に分かれ、各々の「自称」が異なる。湖南省西部のコーション (Qo xiong)、貴州省東南部のムー (Hmub)、貴州省西部と雲南省のモン (Hmong) である。従来は女性の服飾の色や文様に基づいて、黒苗・白苗・青苗・紅苗・花苗などと区別されることが多く、清代には『苗蛮図冊』などの図録が作成されて、当時の漢族の苗族観を知ることが出来る。地域で言えば、湖南西部(湘西)は紅苗、貴州東南部(黔東南)は黒苗、貴州西部(黔西)から雲南(文山、屏辺)では花苗・白苗・青苗などと呼ばれる。黒苗もスカートの長短から長裙苗と短裙苗に分かれる。後者の自称はガノォウ (Ghab nao) である。漢語表記の「苗族」は、各集団の自称に近い「総称」であり、民族識別によって多様な人々が「苗族」の名称でまとめられた<ref>鈴木正崇・金丸良子『西南中国の少数民族ー貴州省苗族民俗誌ー』古今書院 / [[1985年]]</ref>。
民族識別は1953年に始まり、54年に38の少数民族を確定し、65年に15、1982年に2つの少数民族が加わり、現在の中国は55の少数民族と圧倒的多数の漢族という総計56の民族から構成される多民族国家とされている。民族識別は、スターリンが提唱した言語、地域、経済生活、文化に現われる心理素質の4つの共通性が基準とされたが、問題点も多い。中国における「民族」概念は政治性を帯びており「創られた民族」の性格が強い。中国国内のミャオ族について考える場合、中国の古代~近代の歴史文献上で「苗」と記述されている人々と、1949年中華人民共和国成立以降の民族識別で「苗族」と認定された人々とを区別して論じる必要がある。
現在のミャオ族は山地で常畑や焼畑を営む人々と、盆地や平野で水稲耕作を営む人々に分かれる。分布は広域にわたり、他民族と高度を住み分けたり、雑居する場合もある。焼畑を営む人々は移動がさかんで山伝いに移住した結果、現在のラオス、ベトナム、タイにも同系統の言語や類似する文化を持つ人々が生活することになった。
== インドシナ半島におけるミャオ族の分布 ==
[[焼畑]]農耕に伴う移動に加えて、清軍の厳しい討伐や弾圧のため、[[19世紀]]には多くのモン族 焼畑農耕に伴う移動に加えて、清軍の厳しい討伐や弾圧のため、19世紀には多くのモン族 ([[:en:Hmong people|Hmong]]) が[[東南アジア]]のベトナム北部・ラオス・タイ・ミャンマー(ビルマ)に移住していった。[[20世紀]]に入り[[1936年]]7月1日に実施された[[仏印]]総督府下の[[国勢調査]]では、ベトナムで7万8400人、ラオスで4万7000人のモン族が数えられた<ref>「印度支那の労働問題」国際労働局 p289</ref>。その後の各国政府統計では、[[1970年]]ベトナム北部で28万5000人、1968年ラオスで15万8000人、1965年タイで5万3000人となっている。が東南アジアのベトナム北部・ラオス・タイ・ミャンマー(ビルマ)に移住していった。
=== ラオス ===
[[1968年]]当時のラオス政府による人口統計では全ラオス人口280万人のうち15万8000人がモン族であった1968年当時のラオス政府による人口統計では全ラオス人口280万人のうち15万8000人がモン族であった<ref>Lemoine, J. (1972) Un village Hmong vert du haut Laos. Centre National de la Recherche Scientifique, Paris</ref>。[[第一次インドシナ戦争|インドシナ戦争]]時、モン族の一部は[[ベトミン]]と協力し、別の一部はフランス軍に協力した。ベトナム戦争時、ラオスの共産化を防ぐため[[アメリカ中央情報局|CIA]]がモン族の一部氏族を雇い、[[パテート・ラーオ]]と戦わせる部隊に編成した。この兵力は[[1961年]]には9000人。インドシナ戦争時、モン族の一部はベトミンと協力し、別の一部はフランス軍に協力した。ベトナム戦争時、ラオスの共産化を防ぐためCIAがモン族の一部氏族を雇い、パテート・ラーオと戦わせる部隊に編成した。この兵力は1961年には9000人<ref>「ベトナム秘密報告」[[ニューヨーク・タイムズ]]編 [[「ベトナム秘密報告」ニューヨーク・タイムズ編 サイマル出版]] p149</ref>だった。最盛期の[[1967年]]にはラオス王国軍6万3000人に対し1万5000人の部隊となっただった。最盛期の1967年にはラオス王国軍6万3000人に対し1万5000人の部隊となった<ref>「ラオスの歴史」[[上東輝夫]] [[「ラオスの歴史」上東輝夫 同文館]] P137</ref>。負傷や戦死、脱走で兵力が減るとモン族以外の王国軍やタイ軍からの増援や補充人員の割合が増えた。[[1970年]]、部隊は1万2000人であったがその半数はモン族ではない王国軍・タイ軍などからの増援・補充だった。負傷や戦死、脱走で兵力が減るとモン族以外の王国軍やタイ軍からの増援や補充人員の割合が増えた。1970年、部隊は1万2000人であったがその半数はモン族ではない王国軍・タイ軍などからの増援・補充だった<ref>NY TIMES 1970/3/17</ref>。[[1974年]]末、部隊は解散し一部は王国軍に吸収された。モン族の別の氏族はパテート・ラーオと共に戦ったので、同じ民族間でも戦った。1967年~1971年の間、右派モン族は戦死者3772人と負傷者5426人を出した。1974年末、部隊は解散し一部は王国軍に吸収された。モン族の別の氏族はパテート・ラーオと共に戦ったので、同じ民族間でも戦った。1967年~1971年の間、右派モン族は戦死者3772人と負傷者5426人を出した<ref>Dasse, Martial (1976) Montagnards Revoltes et Guerres Revolutionnaires en Asie du Sud-Est Continentale. Bangkok: D.K. BookHouse</ref>。1962年~1975年の間、右派モン族は1万2000人が戦死した<ref>Readers Digest, October 1980, p36</ref><ref>Stuart-Fox, M. (1982) Contemporary Laos (St. Lucia: Queensland University Press) pp. 199–219</ref>。パテート・ラーオ側のモン族の死者を入れると、[[1975年]]までにモン族全体から約3万人が戦死したといわれる。ベトナムからアメリカの撤退後ラオスは共産化し、米側についたモン族の数万人が[[タイ王国|タイ]]領内に移住し、長期滞留でタイ生まれの二世人口の増加や麻薬の問題が深刻化した。[[2005年]]現在、ラオスには46万人のモン族が在住している。。パテート・ラーオ側のモン族の死者を入れると、1975年までにモン族全体から約3万人が戦死したといわれる。ベトナムからアメリカの撤退後ラオスは共産化し、米側についたモン族の数万人がタイ領内に移住し、長期滞留でタイ生まれの二世人口の増加や麻薬の問題が深刻化した。2005年現在、ラオスには46万人のモン族が在住している。
=== タイ ===