:4. 部分的に典拠も示されている、
ことを特徴とする<ref>[[仁科宗一郎]]著『安曇の古代 仁科宗一郎著『安曇の古代 -仁科濫觴記考-』(柳沢書苑、1972年)、16頁・256-283頁</ref>。ここでは「八面大王」という個人ではなく、8人の首領を戴く盗賊集団あるいはその首領の自称として「八面鬼士大王」の名で登場する。概略は次のようなものである。。ここでは「八面大王」という個人ではなく、'''8人の首領を戴く盗賊集団あるいはその首領の自称'''として「八面鬼士大王」の名で登場する。概略は次のようなものである。
:[[神護景雲]](767年 神護景雲(767年 - 770年)末から[[宝亀]]年間(770年770年)末から宝亀年間(770年-780年)にかけて、民家や倉庫から雑穀や財宝を盗む事件がおきた。宝亀8年(777年)秋に調べたところ、有明山の麓に盗賊集団(「鼠(ねずみ)」、「鼠族」)の居場所を発見した。その後、村への入り口に見張りを立てたが、盗賊は隙を窺っているらしく、盗みの被害はいっこうにやまなかった。そのうち盗賊たちは、「中分沢」([[中房川]])の奥にこもって、8人の首領をもつ集団になった。山から出るときは、顔を色とりどりに塗り「八面鬼士大王」を名乗り、手下とともに強盗を働いた。これを憂いた[[仁科氏|皇極太子系仁科氏]]3代目の[[仁科和泉守]]は、家臣の[[等々力家|等々力]]玄蕃亮(3代目田村守宮780年)にかけて、民家や倉庫から雑穀や財宝を盗む事件がおきた。宝亀8年(777年)秋に調べたところ、有明山の麓に盗賊集団(「鼠(ねずみ)」、「鼠族」)の居場所を発見した。その後、村への入り口に見張りを立てたが、盗賊は隙を窺っているらしく、盗みの被害はいっこうにやまなかった。そのうち盗賊たちは、「中分沢」(中房川)の奥にこもって、8人の首領をもつ集団になった。山から出るときは、顔を色とりどりに塗り「八面鬼士大王」を名乗り、手下とともに強盗を働いた。これを憂いた皇極太子系仁科氏3代目の仁科和泉守は、家臣の等々力玄蕃亮(3代目田村守宮<ref>[[等々力家]]</ref>)を都([[長岡京]])に遣わして、討伐の[[宣旨]]を求めさせた。)を都(長岡京)に遣わして、討伐の宣旨を求めさせた。
:[[延暦]]8年(789年)2月上旬、朝廷より討伐命令が下ったため、等々力玄蕃亮の子の4代目田村守宮(生年25歳)を追手(城郭用語)の大将とし、総勢200名ほどで偵察を行い、それに基づいて搦手(城郭用語)の大将[[高根出雲]]と作戦計画を立てた後、まず退治の祈祷を行った。