* 普都神話に創祀の縁起を求める。曰く、普都大神は、葦原中国平定の後、木原で甲楯を脱ぎ、高来里で登天した。甲楯を脱いだことから「楯脱」の地名が生まれ、後に「楯縫」になった。社地には「楯脱山」の地名が残る。
* 木原の村名は、永正3年(1506年)、境内にあった周囲5丈8尺余、高さ120尺の神代杉(明治元年5月(1868年)枯死)の「木」と、木原城主近藤式部大輔藤原利勝(近藤利勝)の「原」を合成して生まれた。それまでは神越村と称していたという<ref>境内案内板、明治神社誌料等。美浦村教育委員会の文化財解説では、境内の北にある周囲6メートル余の巨杉が由来としている。</ref>。
=== 由緒別伝 =====
* 新編常陸国誌は「祭神彦狭知命と云伝ふ、郡中東33村の鎮守にして、即本郡の一宮也(社記、二十八社考、二十八社略縁起)、この神は神代の時に、紀伊国の[[[[忌部氏|忌部]]]]祖、[[手置帆負神]]と同く、[[天照御大神]]の御為に、瑞の御殿を造り、又諸の祭器を作り仕奉りしが、この神は専ら盾を縫ひ作られし故に、楯縫神とも申せしなり(日本紀、古語拾遺)<ref>人代にも祭器用の盾を作る楯部がいた。</ref>」(原文カナ)とし、「楯縫神」たる彦狭知命を祀る社としている。
* 木原の村名は「古老相伝云、上古此処茫々たる荒原にして、杉檜処々に生ず、因りて木原と号く、或時一人の翁忽然と出現し、里人に告げて曰、汝等家屋甚だ拙し、此の宮を見て作り立つべしと、一つ尺度を授けて、翁は杉の小陰に入り玉ひぬ、里人再拝教に従て、神前に群参し、此里に家居を始むと云り(二十八社略縁起)」(原文カナ)とし、木原集落の形成が楯縫神社とともにあったことも伝えている。
* 稲敷郡郷土史には「維新前此は説により誰云ふともなく楯縫神社は大工の祖神なりと称し参拝せしものありしと」と、明治以前まで別伝がそれなりに伝播していたことを示唆する記述がある。
* 一般には、楯縫神社を称する社の祭神は彦狹知命である。楯縫神社または楯部の式内社は、当社以外に少なくとも四社あり、いずれも「楯縫神(彦狹知命)」の社だった。
** 楯縫神社(但馬国'''養父郡'''、小社)。兵庫県養父市。主祭神・彦狹知命
** 楯縫神社(但馬国気多郡、小社)。兵庫県豊岡市。主祭神・彦狹知命
** 楯縫神社(丹波国[[氷上郡]]、小社)。兵庫県丹波市。主祭神・彦狹知命
** 川内多々奴比神社(丹波国[[多紀郡]]、小社)。兵庫県丹波市。主祭神・天照皇大御神<br/>「多々奴比」は「楯縫」が転訛したもので、元は楯部の社として彦狹知命を祀っていたという。
* [[特選神名牒|特選神名帳]]は「今按、楯縫の社号によるときは、彦狭知命を祭れるが如くなれども、[[出雲国風土記]][[意宇郡]]楯縫郷の条に、布都怒志命之天石楯縫直給<sub>レ</sub>之、故云<sub>二</sub>楯縫<sub>一</sub><ref>武田祐吉編による読み下しは「布都怒志(ふつぬし)の命、天の石楯(あめのいはたて)を縫い直し給ひき。故、楯縫といふ」。</ref>とあるに、社説を合せて、經津主命なることしるへし」<ref name="meiji" />と、「楯縫」の称が必ずしも「楯縫神(彦狭知命)」に由来するわけではないと記している。
== 参考文献 ==
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[[Category:兵庫県]]
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[[Category:茨城県]]