===天竺波提国王===
諏訪明神の出自を異国([[天竺]])に求める中世の説話も存在する。諏訪明神の出自を異国(天竺)に求める中世の説話も存在する。
[[嘉禎]]4年(1238年)の奥書を識す『嘉禎4年(1238年)の奥書を識す『'''諏訪上社物忌令之事'''』<ref name="Takei">武井正弘, 「[https://doi.org/10.20807/icmrb.9.0_121 祭事を読む-諏訪上社物忌令之事-]」『飯田市美術博物館 研究紀要』 1999年 9巻、121-144頁。</ref>によると、「建御名方明神」は本来、天竺にある{{読み仮名|波提|はだい}}という国の王であった。王が7月末頃に[[鹿野苑]]で狩りを催したとき、「守屋逆臣」が反乱を起こす。王はその難を逃れて、広大なる慈悲の名を世に示した。後に[[ペルシャ|波斯国]]で悪龍を倒し、「諏訪皇帝」となるによると、「建御名方明神」は本来、天竺にある波提(はだい)という国の王であった。王が7月末頃に鹿野苑で狩りを催したとき、「守屋逆臣」が反乱を起こす。王はその難を逃れて、広大なる慈悲の名を世に示した。後に波斯国で悪龍を倒し、「諏訪皇帝」となる<ref name="chusei">福田晃、二本松康宏、徳田和夫編『諏訪信仰の中世―神話・伝承・歴史』三弥井書店、2015年、114-115頁。</ref>。「東方金色山」で善苗を殖え、成仏した皇帝はやがて日本に渡来し、[[摂津国|摂津]]の海辺([[住吉大社|住吉]])、[[西宮神社|西宮]]、[[美濃国|美濃]]の高山([[南宮大社|南宮]])を経由して信濃にある諏訪郡にたどり着き諏訪明神となった。「東方金色山」で善苗を殖え、成仏した皇帝はやがて日本に渡来し、摂津の海辺(住吉)、西宮、美濃の高山(南宮)を経由して信濃にある諏訪郡にたどり着き諏訪明神となった<ref name="Miyachi8485">宮地直一『諏訪史 第2巻 後編』信濃教育会諏訪部会、1937年、84-85頁。</ref>。
同じような話は『諏方大明神画詞』「祭第六 秋下」にも'''[[諏訪大社#年間祭事|御射山祭]]'''の由緒として説かれている。ここでは逆臣の名前が「美教」となっており、狩りこそが畜類済度の[[方便]]である、と王が天に訴えると、[[梵天]]に遣わされた[[四天王]]が逆臣を誅して王を救った、と書かれている<ref name="chusei" />。