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明神入諏神話の最古の記録は、宝治3年(1249年)に諏訪上社の大祝の諏訪信重から鎌倉幕府に提出された『諏訪信重解状』である<ref>諏訪市史編纂委員会 編「第八節 「諏訪信重解状」と『諏方大明神画詞』」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、811-814頁。</ref><ref name="Miyasaka">宮坂光昭『諏訪大社の御柱と年中行事』郷土出版社、1992年、91-93頁。</ref>。『解状』が語る伝承によると、天降りした[[建御名方神|諏訪明神]]は、守屋大臣(洩矢神)の領地を手に入れるために、藤の鎰(かぎ)<ref>「鎰」の音読みは「イツ」であるが、『解状』本文では「ヤク」と振り仮名をしてあるため、「鑰(鉤)」のことであると思われる</ref><ref>細田貴助『県宝守矢文書を読む―中世の史実と歴史が見える』ほおずき書籍、2003年、17-18頁。</ref>。を持ち出し、鉄の鎰を手にした大臣と引き合ったところ、明神が勝ち、大臣を追討した<ref name="Miyasaka" /><ref name="SuwaShishi682">諏訪市史編纂委員会 編「第二節 諏訪神社上社・下社」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、682-683頁。</ref><ref name="Yamamoto">和光大学総合文化研究所, 山本ひろ子, 中世諏訪社の一考察 : 失われた芸能と伝承を求めて(研究プロジェクト 「諏訪学」提唱のための多角的研究), http://id.nii.ac.jp/1073/00003999/, 東西南北, 2016, p243-206, mar, ncid:AN10441247</ref>。
<blockquote>[[守屋山|守屋山麓]]御垂迹の事守屋山麓御垂迹の事<br />右、謹んで旧貫を検ずるに、当{{読み仮名|砌|みぎり}}は守屋大臣の所領なり。大神天降り{{読み仮名|御|たま}}ふの刻、大臣は明神の居住を{{読み仮名|禦|ふせ}}ぎ奉り、制止の方法を励ます。明神は御敷地と為すべきの秘計を廻らし、或は諍論を致し、或は合戦に及ぶの処、両者雌雄を決し難し。右、謹んで旧貫を検ずるに、当砌(みぎり)は守屋大臣の所領なり。大神天降り御(たま)ふの刻、大臣は明神の居住を禦(ふせ)ぎ奉り、制止の方法を励ます。明神は御敷地と為すべきの秘計を廻らし、或は諍論を致し、或は合戦に及ぶの処、両者雌雄を決し難し。<br />{{読み仮名|爰|ここ}}に明神は{{読み仮名|藤鎰|ふぢかぎ}}を持ち、大臣は鉄鎰を以て、此の処に懸けて{{読み仮名|之|これ}}を引く。明神即ち藤鎰を以て、軍陣の諍論に勝得せしめ給ふ。爰(ここ)に明神は藤鎰(ふぢかぎ)を持ち、大臣は鉄鎰を以て、此の処に懸けて之を引く。明神即ち藤鎰を以て、軍陣の諍論に勝得せしめ給ふ。<br />{{読み仮名|而|しか}}る間、守屋大臣を追罰せしめ、居所を当社に卜して以来、遙かに数百歳の星霜を送り、久しく我が神の称誉を天下に施し給ふ。応跡の方々{{読み仮名|是|これ}}新なり。而8(しか)る間、守屋大臣を追罰せしめ、居所を当社に卜して以来、遙かに数百歳の星霜を送り、久しく我が神の称誉を天下に施し給ふ。応跡の方々是新なり。<br />明神、{{読み仮名|彼|か}}の藤鎰を以て当社の前に植ゑしめ給ふ。藤は枝葉を栄え「藤諏訪の森」と号す。毎年二ヶ度の御神事之を勤む。{{読み仮名|爾|それ}}より以来、当郡を以て「諏方」と名づく。明神、彼の藤鎰を以て当社の前に植ゑしめ給ふ。藤は枝葉を栄え「藤諏訪の森」と号す。毎年二ヶ度の御神事之を勤む。爾(それ)より以来、当郡を以て「諏方」と名づく。<small>(原漢文)</small><ref name="SuwaShishi682" /><ref name="shimosuwa">下諏訪町誌編纂委員会 編「第四編 上代の下諏訪」『下諏訪町誌 上巻』甲陽書房、1963年、564-565頁。</ref></blockquote>
この話は[[室町時代]][[延文]]元年(1356年)の『[[諏方大明神画詞]]』「祭 第三夏 下」のうち、6月晦日に摂社[[諏訪大社#摂末社|藤島社]]([[諏訪市]]中洲神宮寺)で行われるお田植神事の項にも出てくる。ここでは両者の武器が「藤の枝」と「鉄輪」になっている<ref>福田晃,二本松康宏,徳田和夫編『諏訪信仰の中世―神話・伝承・歴史』三弥井書店、2015年、124頁。</ref>。

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