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また、延喜17年(917年)の文書<ref>立券文(土地の売買契約書)に付せられた天暦6年(952年)5月25日追記の保証人中。</ref>中に、当神社の祝部である大宅という人物が見えている<ref>延喜17年4月27日付「丹波国某郷長解」(『平安遺文』215)。</ref>。これは保証人として名を連ねるほどの有力者であったと思われ、神社としても平安時代における当地の有力社であった様子がうかがわれる<ref name="調査報告" />。しかしながら、宝暦年間(18世紀中頃)に祝融の禍に遭い古記録を焼失したといい、その後の沿革は詳らかでない。
[[九品寺 (南丹市)|九品寺]]の縁起によれば、[[白河天皇]]の皇子・[[覚行法親王]]が九品寺の中興[[開山 (仏教)|開山]]となった縁で[[承暦]]3年([[1079年]])に同寺への[[行幸]]があった。同寺の[[鎮守]]であった当社には「船井第一麻気大社」の勅額を下賜して神事祭礼を復興させたとたとされる九品寺の縁起によれば、白河天皇の皇子・覚行法親王が九品寺の中興開山となった縁で承暦3年(1079年)に同寺への行幸があった。同寺の鎮守であった当社には「船井第一麻気大社」の勅額を下賜して神事祭礼を復興させたとたとされる<ref>[[明暦]]3年(1657)の『吉祥山縁起』、[[寛文]]2年(1662)の『九品寺縁起』。明暦3年(1657)の『吉祥山縁起』、寛文2年(1662)の『九品寺縁起』。</ref>。この白河天皇の行幸関連は後世の附会と思われている<ref name="調査報告" />。しかしながら、[[長享]]2年([[1488年]])5月に翌年の当社の頭役を担当する九品寺の僧坊が定められ、半年後の同3年正月にも同様のことが行われており、これより以前に同寺の影響下にあったことはうかがわれる。[[応永]]31年([[1424年]])の文書。しかしながら、長享2年(1488年)5月に翌年の当社の頭役を担当する九品寺の僧坊が定められ、半年後の同3年正月にも同様のことが行われており、これより以前に同寺の影響下にあったことはうかがわれる。応永31年(1424年)の文書<ref>「丹波国[[篠村八幡宮]]造営[[段銭]][[京済|京済分]][[注文]]」(醍醐寺文書)に「麻気社七[[町 (単位)|町]] 分銭五[[貫]]六百[[文 (通貨単位)|文]]」と見える。「丹波国篠村八幡宮造営段銭京済分注文」(醍醐寺文書)に「麻気社七町 分銭五貫六百文」と見える。</ref>にある「麻気社」も当社を指し、これも九品寺の影響下にあった事を示す記録と思われる<ref name="図説2-6-2">『図説・園部の歴史』第2章第6節第2項。</ref>。しかしその後は次第に衰退したものとも思われている<ref name="調査報告" />。
[[江戸時代]]に[[園部藩]]藩主[[小出氏]]の崇敬を受けて復興し、[[元禄|元禄年中]](17世紀末)には本殿の修理を始め[[覆屋]]や拝殿・楼門・石鳥居等の再建、造営といった社頭整備が藩費によって行われた。また、小出氏歴代の[[祈願所]]とされて藩主の直参や代参が行われ、胎金寺が[[別当寺]]と定められた([[本寺]]は九品寺)。

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