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また『日本書紀』神功皇后紀<ref group="原">『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条(神道・神社史料集成参照)。</ref>には、紀伊国の小竹宮<ref group="注">「小竹宮」は御坊市の小竹八幡神社と伝えられる(http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=6001, 小竹八幡神社, 和歌山県神社庁, 2013-10-22)。</ref>において'''天野祝'''と'''小竹祝'''を同所に葬ったため昼も夜も暗くなってしまい、別々に埋葬し直して元通りになったという説話がある。この「天野祝」(丹生祝)は丹生都比売神社の神職と見られる<ref name="神々"/>。
 
高野山の開創以後、丹生都比売神と高野御子神は「'''丹生両所'''」「'''丹生高野神'''」として高野山の鎮守となり、壇上伽藍にも勧請された<ref name="地名"/>。この記載は、文献では『太政官符案』寛弘元年(1004年)9月25日や『百錬抄』寿永2年(1183年)10月9日に見える<ref name="地名"/>。また、高野山の火災では丹生都比売神社が仮所とされたほど重要視されていた<ref name="地名"/>。
 
以後も丹生都比売神社は高野山と密接につながり、高野山の荘園には神霊が勧請されて各地に丹生神社が建てられた<ref name="地名"/>。そのため当社境内にも多宝塔などの仏教系の伽藍が多く築かれ、その様子は鎌倉時代の「弘法大師・丹生高野両明神像」(金剛峯寺蔵)に見える境内図にも描かれている<ref name="地名"/>。後世には、修験道の修行の拠点にもなった。
 
元寇の際には、丹生都比売神社は神威を表したとして一躍有名となり、公家・武家から多くの寄進を受けた<ref name="地名"/>。この頃から、紀伊国一宮を称するようになったと見られている<ref name="一宮"/>。紀伊国では古くより日前神宮・国懸神宮(和歌山市)が一宮の位置づけにあったが「一宮」の呼称自体はなく、丹生都比売神社が弘安8年(1285年)を初見として「一宮」を称し、以後一宮が並立した<ref name="一宮">{{Cite book ja-jp|author=井上 寛司|year=2009|title=日本中世国家と諸国一宮制|series=中世史研究叢書16|isbn=978-4-87294-545-4|page=44}}</ref>。なお、他に一宮を称した神社として[[伊太祁曽神社]](和歌山市)がある。
== 関連項目 ==

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