* 第四殿:市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ)
*: 通称「厳島明神」。第三殿と同年に厳島神社(広島県廿日市市)からの勧請と伝える。
=== 売布神社 ===
地名「'''女布(にょう)'''」はおそらく、「にふ」「にょう」「めふ」のことであり、つまりは「'''丹生'''」ではないかと。網野町に売布神社(めふじんじゃ)が鎮座するなど、山陰地方にはいくつか見られる<ref>[https://ameblo.jp/keith4862/entry-12645550022.html 日原神社、かむながらのみち]、~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-22)</ref>。
=== 歴史 ===
創建の年代は不詳。『播磨国風土記』逸文<ref name="原">『釈日本紀』巻11(述義7)便到新羅時随船潮浪遠逮国中条所引『播磨国風土記』逸文。</ref>には「'''爾保都比売命'''(にほつひめのみこと)」が見え、丹生都比売神と同一視される<ref name="地名">『和歌山県の地名』丹生都比売神社項。</ref>。同文によれば、神功皇后の三韓征伐の際、爾保都比売命が国造の石坂比売命に憑いて神託し、赤土を授けて勝利が得られたため、「管川の藤代の峯」にこの神を祀ったという。その場所は現在の高野町上筒香の東の峰(旧鎮座地か:管川の藤代の峯(比定地))に比定され<ref group="注">「筒香(つつが)」は「'''管川(つつかわ)'''」からの転訛とされる。</ref>、'''丹生川の水源地'''にあたる<ref name="地名"/>。また同地は丹生都比売神社の旧鎮座地と見られているが、そこから天野への移転の経緯は明らかではなく<ref name="地名"/>、高野山への土地譲り(後述)に際して遷ったとする説がある<ref name="神々"/>。
一方『丹生大明神告門』<ref group="注" name="丹生大明神告門1">『丹生大明神告門』は丹生都比売神社に伝わる祝詞。「告門」は「のりと」と読む。『延喜式』収録の祝詞ではなく、平安時代以降伝来されたものになる。</ref>では、丹生都比売神は伊都郡奄田村(現・九度山町東北部)の石口に天降り、大和国吉野郡の丹生川上水分峰に上ったのち、大和国・紀伊国の各地に忌杖を刺し、開墾・田地作りに携わって最終的に天野原に鎮座したと伝える<ref name="神々"/>。
『延喜式』神名帳(927年成立)の記載では祭神は1座。その後に上記2座になり、平安時代末頃からは4座になったと見られている<ref name="地名"/>。仁平元年(1151年)の文書に「第三神宮」の記載があるほか<ref name="地名"/>、正応6年(1293年)には天野四所明神の「三大神号'''蟻通神'''」の神託が見え、第三殿に「蟻通神」が祀られていたことがわかる<ref name="地名"/>。祭神の増加に関して、『高野春秋』によれば承元2年(1208年)10月に北条政子の援助で行勝上人と天野祝により、気比神宮の大食比売大神<ref group="注" name="氣比神宮"/>、厳島神社の市杵島比売大神が勧請されたという<ref name="地名"/>。年代は史料間で食い違うものの、現在の祭神はこれに基づいている。
また『日本書紀』神功皇后紀<ref group="原">『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条(神道・神社史料集成参照)。</ref>には、紀伊国の小竹宮<ref group="注">「小竹宮」は御坊市の小竹八幡神社と伝えられる(http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=6001, 小竹八幡神社, 和歌山県神社庁, 2013-10-22)。</ref>において'''天野祝'''と'''小竹祝'''を同所に葬ったため昼も夜も暗くなってしまい、別々に埋葬し直して元通りになったという説話がある。この「天野祝」(丹生祝)は丹生都比売神社の神職と見られる<ref name="神々"/>。
高野山の開創以後、丹生都比売神と高野御子神は「'''丹生両所'''」「'''丹生高野神'''」として高野山の鎮守となり、壇上伽藍にも勧請された<ref name="地名"/>。この記載は、文献では『太政官符案』寛弘元年(1004年)9月25日や『百錬抄』寿永2年(1183年)10月9日に見える<ref name="地名"/>。また、高野山の火災では丹生都比売神社が仮所とされたほど重要視されていた<ref name="地名"/>。
以後も丹生都比売神社は高野山と密接につながり、高野山の荘園には神霊が勧請されて各地に丹生神社が建てられた<ref name="地名"/>。そのため当社境内にも多宝塔などの仏教系の伽藍が多く築かれ、その様子は鎌倉時代の「弘法大師・丹生高野両明神像」(金剛峯寺蔵)に見える境内図にも描かれている<ref name="地名"/>。後世には、修験道の修行の拠点にもなった。
元寇の際には、丹生都比売神社は神威を表したとして一躍有名となり、公家・武家から多くの寄進を受けた<ref name="地名"/>。この頃から、紀伊国一宮を称するようになったと見られている<ref name="一宮"/>。紀伊国では古くより日前神宮・国懸神宮(和歌山市)が一宮の位置づけにあったが「一宮」の呼称自体はなく、丹生都比売神社が弘安8年(1285年)を初見として「一宮」を称し、以後一宮が並立した<ref name="一宮">井上 寛司, 2009, 日本中世国家と諸国一宮制, 中世史研究叢書16, isbn:978-4-87294-545-4, p44</ref>。なお、他に一宮を称した神社として伊太祁曽神社(和歌山市)がある。
=== 私的考察・蟻通神について ===
第3殿の祭神について。気比神宮に大食比売大神は祀られていない。気比神宮の神を'''蟻通神'''と呼ぶこともない、という奇妙な由来を持つ祭神である。これを「気比明神」と呼ぶのは「気比」という言葉に「食物をもたらす神」という意味を持たせてそうしているのだと考えるが、では「蟻通神」とは何なのだろうか。
== 関連項目 ==
* [[神阿多都比売]]:阿良須神社・福知山市の祭神。
* [[七夕神社]]:物部氏に関連する神社と思われる。
* [[細烏女]]:消えてしまった日月の類話。
== 注釈 ==
<references group="注"/>
== 注釈・原 ==
<references group="原"/>
== 脚注 ==