七人の爺さんと、七人の婆さんのくだりは、社会が階層化して、人々をまとめるリーダーというか、管理職が登場したことを示すように思う。「七人」という数字から、このリーダー達が天の中心の「北斗七星」になぞらえて選ばれたことが分かる。「'''牛殺しの刀の管理'''」とはどのような意味だろうか。「'''牛'''」に「'''刀(勿)'''」と書いて「'''物'''」と読む。「'''物'''」とは元々「'''牛を殺す刀'''」のことだったのだ。日本では、武器を管理し、軍事力を担う氏族を「'''物部氏'''」といった。物部氏の拠点である奈良県の石上神宮からは、北斗信仰を思わせる七支刀が出土している。
== 水牛を屠殺する祭祀 ==
そもそもチャンヤンは何故弟の水牛を殺す祭祀を行ったのだろう。祭祀の意味を調べてみた。
=== 水牛を屠殺する意味・コ蔵節 ===
<blockquote>ワンという青年が、船に乗っていた時に暴風雨に遭い、命を落とした。彼の家族は、ブタを一頭殺しただけで簡単に葬式を済ませたが、立派な副葬品を添えなかったので、ワンの霊は死者が通る関所を越えることができなかった。しばらくすると、ワンの母親が奇病に罹り、長期間の治療を施しても治らなかった。<br>そこでゴウサ(占い師)を呼んで治療を施してもらったところ、ゴウサは、死んだワンのために、もう一度盛大な葬式を開き、もっとも大きな水牛を殺し、彼が好きだった歌舞を行うよう勧めた。ワンの家族が、ゴウサの言い付け通りにすると、母親の病はまるで奇跡のように良くなった――。<br>このことがあった後、ミャオ族は、「コ蔵病」という病があり、水牛を殺して先祖を祭ることではじめて、疫病や災害から逃れられると信じるようになった。<ref>[http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/guanguang/jieri/200208/200208.htm 貴州・ミャオ族のコ蔵節 10数年に一度、水牛の首を捧げる]、高氷、人民中国(最終閲覧日:24-12-07)</ref></blockquote>
=== プーセとヤーセ・オーストロネシア語族(ルア族・タイ)の伝承 ===
<blockquote>ドイステープとドイカムの山の麓にラミンナコンという町があり、'''ルア族'''が住んでいた。山に、そこにはプーセ(セ爺)とヤーセ(セ婆)という鬼夫婦と子どもが住んでいた。プーセはドイステープ山の神、ヤーセはドイカム山の神だった。彼らは森の動物を食べていたが、狩りに来た村人たちも捕まえてはよく食べてい。鬼退治に兵士を送っても、全員食べられてしまい、恐れた村人たちがどんどん町を去るので町は荒廃してしまった。お釈迦様に助けを求めたところ、お釈迦様が鬼に殺生が良くないことを説かれ、'''森を守る'''こと、そして果物や野菜を食べることを約束させた。ただ、これまで肉を食べていたので、1年に1度でいいから人間の肉を供えてくれと鬼は懇願した。(中略)結局、水牛を供えることになり、今でも毎年1回、ランナーの暦で9月14日に水牛を供える儀式が行われている。([http://kuidaore-thai.com/chiangmai-information/puseyase-2/ 水牛を生贄にするプーセ・ヤーセー]、チェンマイ食いだおれタイ(最終閲覧日:24-12-07))</blockquote>
=== 私的考察 ===
どうやら、「水牛を生け贄にする」という意味は、元は人間の生け贄を捧げていたものを水牛に置き換えたもののようだ。
ミャオ族の伝承の中に、かすかではあるが、水牛を疫神に見立てて、'''疫神を黄泉の国に送ってしまおう'''、という思想が見える。これは水牛が、災厄を起こす神である[[蚩尤]]や[[炎帝神農|炎帝]]の象徴であるからではないだろうか。牛や水牛は農耕に役立つ大切な動物ではあるが、神としては悪神の性質を持つとされているのだ。
そして、おそらく先祖の誰かが亡くなって、きちんと祀ってもらえなかったために、'''祟る鬼(幽鬼)'''となっていたものを慰撫して、'''特に疫病に対する祟りを抑えてもらおう、そして子孫を守護してもらおう'''、という意味もあるようだ。ルア族の伝承から、この先祖が「'''人肉を食べていた'''」事が分かる。また、ミャオ族の伝承から、この先祖が'''船に乗っていて、暴風雨で溺れ死んだ'''ことが分かる。これは、「大洪水」の神話を「'''[[伏羲]]と[[女媧]]が溺れ死んだ'''」として、その霊を慰撫するための祭祀と考えられていたのではないだろうか。管理人が考えるところの
* [[伏羲型神]]と[[吊された女神]]が溺れ死ぬか何かで非業の死を遂げ、死後の祭祀をきちんと行わないと病を起こしたり、子孫に良くないことを起こすため、本来なら人肉を捧げて供養するところ、これを人類の兄弟ともいえる大事な水牛を代わりに捧げることで彼らを慰撫し、子孫に災いを起こすのではなく、守護をしてもらおう、という概念
なのだと考える。供養を行わないと、先祖は疫神としての[[祝融型神]]へと変わって災疫神になってしまうのだ。
また、先祖を植物化する傾向が強くなると、一般的な豊穣を求める祭祀が、「'''先祖(植物)を生き返らせる祭祀'''」ともなり得ないだろうか。植物とは、先祖かもしれないが、人の生活の役に立つものでもある。穀物や野菜は食料になるし、木や竹は加工すれば建材や道具、楽器にもなる。そして消耗品でもあるので、植物は収穫しては消費し、殺して加工し、ゴミになったら捨てて、また新たな植物の育成と収穫を求める、とその繰り返しである。だから'''殺しても、常に生き返って再生してもらう必要があるのも植物'''なのだ。先祖のもたらす加護に植物の死と再生の円滑さを求め、かつ先祖を植物に見立てると、「'''先祖が死と再生を繰り返さなければならない'''」ということになる。これを求める祭祀にも水牛や人身御供を捧げる必要がある、ということにならないだろうか。
チャンヤンは結婚に際して、「死んだ先祖の象徴」ともいえる竹に相談を行っている。この相談相手は[[バロン]]・[[ダロン]]神話では父親の'''[[アペ・コペン]]'''になっているのだから、チャンヤン神話の竹は「亡くなった父親」の象徴であるともいえる。
人が普通の状態では物言わぬ竹に変化しているのは、それはその人が死んでいる、ということの象徴でもあると考える。チャンヤンが精神的に竹と交流できるのは、'''チャンヤンが神霊と交流できるシャーマンでもある'''ことを示しているのかもしれない。
チャンヤンが肉塊から発生させた人類は言葉を発することができない。それは人類がまだ「死者」の領域にいることを示しているように思う。彼らを「生者」の側に引っ張るには、別の命が必要とされる、と考えられたのかもしれない。それで「物言う竹」は「生きているもの」とみなされて、生け贄にされ燃やされてしまうのだろう。「'''人類のための犠牲'''」という名目で。
よって、水牛などを「生け贄にする」という意味は
* 疫神に見立てて、これを殺して冥界に送る(厄払い)
* 死したる先祖の供物(食物、配偶者など)にする(供養)
* 新たな人類を誕生(繁栄)させるために'''引き換える必要がある魂'''('''間引き'''(的な発想))
があるように思う。
== まとめ ==
チャンヤンは大洪水を生き抜いた[[伏羲型神]]なのだけれども、弟を自ら殺しているし、相談役で親ともいえる「'''竹'''」を自分の都合で情け容赦なく燃やしたりしているので、文化英雄なのだけれども、[[祝融型神]]としたい。火や技術の神でもある[[祝融]]は、血縁よりも技術力を優先して物事を行う傾向があるように思うのだが、その起源は[[バロン]]・[[ダロン]]神話の[[ダロン]]よりは、チャンヤンの姿勢にあるのではないだろうか。
チャンヤンの父ともいえる蛾王は、妻とつつく神なので[[祝融型神]]といえる。妻のメイパンメイリュウは[[吊された女神]]といえると考える。
== 私的注釈 ==
== 関連項目 ==
* [[人身御供]]
* [[伏羲]]
* [[ダロン]]
* [[アドニース]]:アドニースの物語の前半部分はチャンヤンの誕生譚と類似している。
== 脚注 ==
{{DEFAULTSORT:たろんちやんやん}}
[[Category:中国神話]]
[[Category:ミャオ族神話]]
[[Category:タイ神話]]
[[Category:祝融型神]]
[[Category:伏羲型神]]
[[Category:文化英雄]]
[[Category:武器管理神]]
[[Category:牛]]
[[Category:水牛]]
[[Category:竹]]
[[Category:蝶]]
[[Category:魔術師]]
[[Category:サートゥルヌス|*]]