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『日本三代実録』によると貞観2年(860年)2月5日には「信濃国正六位上馬背神、飄別神、妻科地神、無位駒弓神、出速雄神」には従五位下が授与された。更に貞観15年(873年)4月5日、「信濃国従五位下出早雄神」が従五位上に昇格されたとある<ref name="sandaijituroku">http://www.j-texts.com/chuko/sandai.html, 日本三代実録(リンク切れ:2023年2月)、日本文学電子図書館(J-TEXTS), 2019-07-19</ref>。元慶2年(878年)2月7日に正五位下となる<ref name="ryakuengi"/><ref>太田亮『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983470/88 諏訪神社誌 第1巻]』、官幣大社諏訪神社附属諏訪明神講社、1926年、157頁。</ref>。
[[諏訪地域|諏訪地方]]では諏訪地方では'''[[建御名方神]]'''([[諏訪大社]]の祭神)の[[御子神]]とされている。近世の伝承では建御名方神の次男で、父神の世継ぎとして諏訪を治めたと伝わる(諏訪大社の祭神)の御子神とされている。近世の伝承では建御名方神の次男で、父神の世継ぎとして諏訪を治めたと伝わる<ref>宮坂喜十『諏訪大社の信仰』1938年、3頁。</ref>。また[[武居氏]](下社の社家)の家伝によると、父神の寵愛を受けた出早雄神は弟の。また武居氏(下社の社家)の家伝によると、父神の寵愛を受けた出早雄神は弟の[[意岐萩神]](ここでは武居氏の祖先とされる)から諏訪の地を譲り授けられ、意岐萩神とともにそこに鎮座した<ref>飯田好太郎 編『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765166/3 諏訪史料 巻之四]』諏訪史料編纂所、1898年、1頁。</ref>。また、信濃国の開拓に功績をたてた[[ミシャグジ#王子神(御子神)としてのミシャグジ|13柱の御子神]]の一つに数えられる。また、信濃国の開拓に功績をたてた13柱の御子神の一つに数えられる<ref>三輪磐根『諏訪大社』学生社、1978年、33-34頁。</ref>。
[[岡谷市]]にある[[出早雄小萩神社]]では、父神と協力して、諏訪の開拓に貢献したと伝わり、また神社の社家の祖神とも伝わる。
== 系譜 ==
[[ファイル:Moriya Family Tree - 守矢氏系図.png|190px|サムネイル|{{Center|『守矢氏系譜』における[[守矢氏]]の最初の五代<br />(洩矢神から八櫛神まで)}}]]
 
諏訪上社社家・[[守矢氏]]の家系図『神長守矢氏系譜』(明治初期成立)では[[洩矢神]]の娘・[[多満留姫]]を娶ったとされている<ref name="Moriyakeifu">「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185913/24 神長守矢氏系譜]」『諏訪史料叢書 巻28』諏訪教育会編、1938年、31-72頁。</ref>。一般に上社の[[祝 (神職)|大祝]]職を務めた[[諏訪氏]](また[[洲羽国造]])の祖神とされる<ref>延川和彦『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/927367/24 諏訪氏系図]』飯田好太郎、1921年、24-45コマ目。</ref><ref>「諏訪神家」『諏訪史料 巻之1』飯田好太郎、1898年。</ref><ref>「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185913/13 神氏系図 称一族系図]」『諏訪史料叢書 巻28』諏訪教育会、1938年、9-29頁。</ref><ref>中田憲信「神氏」『諸系譜』第六冊</ref><ref>中田憲信「諏訪氏」『諸系譜』十三冊</ref><ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、236-237頁。</ref><ref>太田亮『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983470/229 諏訪神社誌 第1巻]』、官幣大社諏訪神社附属諏訪明神講社、1926年、229頁。</ref>。[[早出氏]]の祖神とも言われており、出早雄命の後裔が出早を氏としていたが、後に神の神威を恐れて苗字の「出早」の文字を傾倒したものとされる<ref>飯田好太郎 編『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765165/22 諏訪史料 巻之三]』諏訪史料編纂所、1898年、1頁。</ref>。

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