文久元年(1861年)『駿河志料』には、以下のようにある<ref name="#1">『駿河志料』巻之五十二富士郡二「鈴川」</ref>。毎年里人が旅人の女子を捕え三股淵へ生贄に捧げていたが、あるとき巫女6人を捕えた。巫女の下女であった阿兒(あじ)は嘆き、京に上り教えを請い、教えの通り人形を供することで鎮めることに成功する。人々はおあじを祀り、また巫女6人についても柏原の地で祀ったという。
六王子神社については、「六皇子社阿字神生贄淵<ref group="注釈">贄淵は三股淵のこと</ref>のこと、近世里人の説更に信じがたし」とあり<ref>『駿河志料』巻之五十一富士郡一「青嶋」</ref>、また祭神は「詳ならず」としつつも浅間第六御子とする<ref name="#1"/>。
各史料で差異はみられるものの大筋は同じであり、旅人を三股淵の大蛇の生贄に捧げている点、それが女子である点、大蛇に対する供え(主におあじの力)により生贄が止んでいる点は共通している。また富士浅間の神力も強調されている<ref>富士市, 2018, p80</ref>。