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、 2024年11月17日 (日)
'''阿字神社'''(あじじんじゃ)は、[[静岡県]][[富士市]]鈴川町にある[[神社]]。
== 人身御供 ==
[[ファイル:Aji Shrine Okumiya.jpg|thumb|250px|阿字神社奥宮]]
[[ファイル:Mitsuke-shuku.jpg|thumb|250px|見付宿跡の石碑]]
阿字神社は[[人身御供]]が謂れで成立した神社{{Sfn|中山|1935|p=268-269}}とされ、伝承が残る。
[[宝永]]4年([[1707年]])『駅路の鈴』には、以下のようにある。[[下総国]]の6人の神女が下女「おあじ」を連れ京へ上る途中、[[吉原宿]]に泊まった。吉原宿には往来の女性を[[三股淵]]<ref group="注釈">[[和田川 (富士市)|和田川]](生贄川)と[[沼川 (静岡県)|沼川]]の合流地点 </ref>に住む大蛇の生贄にする習わしがあり、うち1人を生贄に捧げるという。そこで下女のおあじは急いで京へ上り、朝廷より人形の雛形に[[強飯]]を添え淵に沈めよという宣旨をもらう。おあじは急ぎ戻り宣旨の通りにし、6人の神女も神楽を舞った。すると生贄は止んだという{{Sfn|富士市|2018|p=79}}。
この伝承のうち、人形の雛形と強飯と共におあじ自らも投身し生贄となるものも存在する{{Sfn|静岡県|1993|p=164}}。おあじ投身の後に伝法村<ref group="注釈">現在の静岡県富士市伝法</ref>の保寿寺の僧侶が生贄廃止を祈念し、大蛇もそれを誓い、人身御供は止んだ。村人は犠牲となったおあじを祀る神社を建立した。それが阿字神社であるという。
[[享保]]18年([[1733年]])『田子の古道』には、以下のようにある。あるとき東国より7人の神女がやってきたが、生贄として捕えられた。このうち御籤で最も若い「おあじ」が人身御供に選ばれた。6人の神女は柏原<ref group="注釈">現在の静岡県富士市柏原・柏原新田</ref>まで引き返したが、おあじを置いてきたことを恥じ[[浮島沼]]に投身してしまう。一方おあじは富士浅間宮の神力により大蛇が鎮まったため難を逃れ、6人の後を追う。しかし6人の死を知り、失意から投身する。それを知った見付<ref group="注釈">現在の静岡県富士市鈴川に比定される</ref>の老人がおあじを氏神として祀った。また6人が投身した柏原新田でも氏神として祀ったという{{Sfn|富士市|2018|p=79-80}}。その社が[[六王子神社]]である。
[[文政]]3年([[1820年]])『駿河記』には、以下のようにある<ref>『駿河記』巻二十四富士郡巻之一「柏原」</ref>。三股淵には大蛇が棲んでおり、毎年生贄を捧げていた。ある年下総国の6人の巫女が上京する道中、柏原の地で里人により捕縛される。巫女の下女であった阿字はこれが生贄に対する備えであることを知り嘆き、里人に暇を請い上京し朝廷へ報告する。朝廷より雛形を賜り祭祀を示された阿字は急いで戻り、三股淵に雛形を供え祭祀を行い、6人の巫女らは神楽を舞った。これ以後は生贄を取ることは止んだという。
[[文久]]元年([[1861年]])『駿河志料』には、以下のようにある<ref name="#1">『駿河志料』巻之五十二富士郡二「鈴川」</ref>。毎年里人が旅人の女子を捕え三股淵へ生贄に捧げていたが、あるとき巫女6人を捕えた。巫女の下女であった阿兒(あじ)は嘆き、京に上り教えを請い、教えの通り人形を供することで鎮めることに成功する。人々はおあじを祀り、また巫女6人についても柏原の地で祀ったという。
各史料で差異はみられるものの大筋は同じであり、旅人を三股淵の大蛇の生贄に捧げている点、それが女子である点、大蛇に対する供え(主におあじの力)により生贄が止んでいる点は共通している。また富士浅間の神力も強調されている{{Sfn|富士市|2018|p=80}}。
またこの伝承の特徴として、人身御供の代わりが人形(雛形)である点が指摘される<ref> [[大和岩雄]]『鬼と天皇』97頁、白水社、1992</ref><ref> [[松前健]]『松前健著作集 第7巻 日本神話と海外』312頁、おうふう、1998</ref><ref> [[松前健]]『神々の系譜―日本神話の謎』106頁、吉川弘文館、2016</ref>。
== 神事 ==
[[ファイル:Fujizuka.jpg|thumb|250px|富士市鈴川の富士塚、富士大宮司らの参詣の地]]
[[慶安]]3年([[1650年]])の奥書を持つ「富士本宮年中祭礼次第」に浜下り神事として「'''あちかみ'''参詣、大宮司殿・庶子衆」とあり{{Sfn|浅間文書纂|1973|p=24}}、[[富士山本宮浅間大社]]の[[富士氏|富士大宮司]]および庶子らが浜下りの際に参詣していたとある。また「古来所伝祭式」に「大宮司・公文・案主富士丘二詣デ、正鎰取祓ヲ修ス。次に'''アヂ神'''に詣デ帰テ斎戒ス」とあり{{Sfn|浅間文書纂|1973|p=58}}、鈴川の富士丘(富士塚)に詣でた後に阿字神社に参詣していたことが記される{{Sfn|荻野|2006|p=4-5}}。
また『駿河志料』に阿字神社について「大宮浅間四月十一月申日祭祀前海辺祓潔のとき、此社を拝する例なり〔大宮祭奠次第記に見ゆ〕」とあり<ref name="#1"/>、富士大宮司・社人が4月と11月の海辺祓潔の際に阿字神社へ参拝していたと記される{{Sfn|富士市|2018|p=81}}。また海辺祓潔の垢離の後、阿字神社に近接する富士塚に参詣していたと記される{{Sfn|野本|1976|p=29}}。
この浜下り神事と海辺祓潔は同一視されている{{Sfn|富士市|2018|p=56}}。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author = [[中山太郎 (民俗学者)|中山太郎]]
|year = 1935
|title = 補遺日本民俗學辭典
|series =
|publisher = 昭和書房
|isbn =
|ref = {{SfnRef|中山|1935}}
}}
* {{Cite book|和書
|author = 浅間神社社務所
|year = 1973
|title = 浅間文書纂
|series =
|publisher = 名著刊行会
|isbn =
|ref = {{SfnRef|浅間文書纂|1973}}
}}
*{{Cite journal|和書
|author = 野本寛一
|date = 1976
|title = 富士の信仰と文学
|journal = 地方史静岡
|issue = 6
|isbn =
|pages = 20-39
|ref = {{SfnRef|野本|1976}}
}}
* {{Cite book|和書
|author = 静岡県
|year = 1993
|title = 静岡県史 資料編24 民族2
|series =
|publisher =
|isbn =
|ref = {{SfnRef|静岡県|1993}}
}}
*{{Cite journal|和書
|author = 荻野裕子
|date = 2006
|title = 富士講以外の富士塚 -静岡県を事例として-
|journal = 民具マンスリー
|issue = 38
|isbn =
|pages = 1-14
|ref = {{SfnRef|荻野|2006}}
}}
* {{Cite book|和書
|author =富士市教育委員会
|year = 2018
|title = 鈴川の富士塚
|series = 富士市文化財調査報告書
|publisher =
|isbn =
|ref = {{SfnRef|富士市|2018}}
}}
== 関連項目 ==
* [[三股淵]]
* [[六王子神社]]
* [[人身御供]]
* [[富士氏]]
{{神道 横}}
{{DEFAULTSORT: あししんしや}}
[[Category:日本神話]]
[[Category:富士市の建築物]]
[[Category:富士市の歴史]]