この神社は「大船大明神」とも呼ばれており、大船明神としての縁起としては、安康天皇の御代、近江から松本氏が勧請し、大船山に鎮座したという。その時、船にて勧請したその船が、今、岩となって大船山になったらしい。(HP:多久神社、玄松子より)
==== 阿遅鉏高日子根神について ====
『古事記』では、葦原中国平定において登場する。シタテルヒメの兄で、高天原に復命しなかったために死んでしまったアメノワカヒコの葬儀を訪れた。しかし、アヂスキタカヒコネはアメノワカヒコとそっくりであったため、アメノワカヒコの父のアマツクニタマが、アメノワカヒコが生きていたものと勘違いして抱きついてきた。アヂスキタカヒコネは穢わしい死人と一緒にするなと怒り、神度剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。シタテルヒメはアヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠んだ。
『出雲国風土記』によれば、幼い時、その泣き叫ぶ声が非常に大きかったので、静かになるまで船に乗せて八十島(日本)を巡ったり、高屋を作って梯子をかけそれを上り下りさせたりした。天御梶日女(あめのみかじひめ)との間に雨の神である多伎都比古(たきつひこ)をもうけたとしている<ref>「泣き喚く神」といえば、他に須佐之男が有名ではないだろうか。</ref>。
==== 賀茂別雷命について ====