会津比売神

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概要[編集]

会津比売神社では会津比売命と表記する

「かいづ」の名称の由来は不明であるが、神社周辺の松代一帯は古来海津(かいづ)と呼ばれており、松代城も海津城と呼ばれていた。

『日本三代実録』にも見える式外社「會津比賣神」に比定される会津比売神社の祭神で、『松代町史』では建御名方神の子・出速雄命の御子で、初代科野国造の武五百建命の妻とされる。また伊津速比売神と同人とする説もある。しかし、「阿蘇」系図では武五百建命の妻を建御名方神の五世孫・会知早雄命の娘としており[2]、会知早雄命は伊豆早雄命の四世孫となる。

一説に神陵は妻女山の古墳とされ、山の名前の由来とされる。

貞観八年六月一日従四位下を賜る[3]

系譜[編集]

会津比売神社では建御名方神の子出早雄命の娘とされ、初代科野国造の妻と伝えるが、建御名方神の孫・六老彦神の娘で、兄妹に鴨羽神草奈井比売神がいるとする系図もある[4]

一方可毛羽神や草奈井比売神は建御名方神の子・伊豆速雄命の子とされ、箭津安賀多神(六老彦神)は兄とする説もある[5]

祀る神社[編集]

  • 会津比売神社(長野県長野市松代町)

関連するかもしれない神社等[編集]

臼道祖神(臼道祖神社)[編集]

長野県千曲市八幡辻にある神社。境内由緒は以下の通り。

道祖神は村の入口、部落の境などの路傍に立っている。自然石のまま、あるいは台石の上の棹に道祖神と刻まれたものが多い。そして賽の神といわれるように、悪霊や邪悪の村への侵入を防ぎ、道行く人を守る神である。また、近在では正月、道祖神の前でドンド焼が執り行われるのが普通である。

峰・姨捨・郡方面から下る道筋のこの辻の道祖神は、自然石で臼を台座としているが、臼は女性の代名詞で、その上に道祖神が乗り陰陽をあらわしている、との見方もある。流造りの社殿に安置され、鳥居まである特異な道祖神である。したがって臼道祖神と呼ばれ、臼道祖神社として崇敬される理由であろう。

祭日は九月二十四日で、子供相撲が公民館の庭でひき続き実施されている。なお、大頭祭の際には武水別神社へ向う頭人は拝礼し、干魃の夏には雨乞の人びとによって、御本尊の道祖神は川底へ沈座された。かつては八月一日に、虫送りの行事もあったという。(略)

斎森神社[編集]

長野県千曲市八幡にある神社。祭神は建御名方神か。境内由緒は以下の通り。

この斎の森神社の歴史は鎌倉時代、およそ七〇〇年ほど前に建立されたといわれ、中世以降は諏訪大明神といわれた。東山道信濃路の峠(諸説あるが一本松峠であると思われる)を下って、川中島平に入る入口を守る神(塞いの森)として、また、武水別神社に対して先の森であったといわれている。

この地積は八日市場と称され、八幡宮(武水別神社)を遙かに拝む交通上の要所であった。八の日に市が定期的に開催されたのは鎌倉時代からであろうか。これより先の郡下の年貢を、遠路木曽路を越えて、大和の国まで運ぶ交易(米や絹などを金銭にかえて上納)の場であったといわれている。

今は主なる祭事として、毎年十二月十日から五日間行われる大頭祭(新嘗祭)の大衆の出発神社として、伝統を引き継いでいる。(略)

臼女神社[編集]

長野県長野市篠ノ井布施高田臼女にある神社。旧布施神社。境内由緒は以下の通り。境内内に石臼(自然石、玄武岩)があり、信仰の対象となっている。いつからどのように鎮座したのかは不明。

古老の言い伝えによると、神社の前身は六百数十年続いた鎌倉時代の豪族布施八郎と後に天照大神とを奉斎した布施神社である。

明治四十一年(一九〇八)国の合併令により、五明の布制神社に御神体などを引き渡した。

昭和に入り長野県が養蚕業の隆盛期に、皇居の紅葉山の養蚕神社からご分体され、さらに再分体された更科郡養蚕神社が篠ノ井の地に奉斎されていたのであるが、神社が諸般の情勢により解体されることになり、識者の尽力により昭和二十三年ご神体と社殿とを布施神社跡地に遷座されたものである。

臼女さん(うすめさん)(石臼)

此の石臼は古くより、「碓女(うすめ)」さんと、親しみをもって呼ばれ、唐臼区の守護神として多くの人々に崇拝されて来た。

神社不在の時期に於いても区民により手厚く保護され、現在は臼女神社の象徴として一体をなし信仰されているものである。

健御名方富命彦神別神社[編集]

長野市信州新町水内にある神社。境内内伊勢社に「伊豆玉姫命」を祀る。

善光寺如来と臼[編集]

元善光寺は、長野県飯田市座光寺にある天台宗の寺院。元善光寺と名付けられる前は坐光寺(ざこうじ)と呼ばれており、現在も座光寺(読み同じ)として地名にその名を残す。善光寺はここから諏訪を経て長野市の現在地に遷座したと伝わる[6]。元善光寺由緒より。

本多善光公は信州麻績(おみ)の里(現在の飯田市座光寺)の住人で、国司に従って都に上り、ある時 難波の堀江で宿命により一光三尊の如来にめぐりあい、これを背に負って古里にお連れし 清めたの上に御尊像を安置し奉ったのが当山の起源である。
臼からは光明がさして光り輝き「御座光の臼」と呼ばれて今も当山の霊宝となっている[7]

大頭祭について[編集]

武水別神社(長野県千曲市八幡にある神社。)の祭で、12月10日から14日に行われる新嘗祭である。「大頭祭(だいとうさい)」と通称される。祭は5人の頭人(とうにん)を中心に進行し、その三番頭を「大頭」と呼ぶことが祭の名前の由来である。歴代の頭人の氏名を記した「御頭帳」では、最古は文禄元年(1592年)にまで遡っており、400年以上続く祭とされ、国の選択無形民俗文化財に選択されている[8]

大頭祭に奉仕する「頭人」とは、氏子の中から選ばれた祭事の中心人物である。大頭祭では七郷(現在の千曲市八幡・更科・五加地区)の氏子から毎年5人が選ばれる。5名のうち、三番頭を「大頭」と呼ぶことが名前の由来である。頭人には順位があり、[五]⇒[四]⇒[二]⇒[一]⇒[三]という変わった順で位が上がる。各地域ごと5番頭から順次務めた後、三番頭を務める。

新嘗祭の期間中、お供え物(御供・神饌物)を神社へ奉進するお練り(献備品奉進祭)を行い、新穀を神に捧げて収穫を感謝する。

祭りの起源は明らかではないが、「御頭帳」(歴代の頭人の氏名を記した書物)の記録では、1592(文禄元)年から頭人の名前が記されているため、その頃すでに大頭祭が行われていたことがわかっている。

斎森神社から武水別神社まで(約1キロ程度)大行列をつくって、米や野菜類といったお供え物(御供・神饌物)を神社に歩き運ぶ。沿道では、豆がらを燃やして行列を迎える。途中、宝船からミカンや日用品(たわし・軍手・靴下・ティッシュペーパー)などが撒かれる。これを御供まき(ごくまき)という[9]

私的考察[編集]

会津比売神は初代の信濃国造の妻とされており、諏訪よりは更科郡に存在感のある女神と感じる。長野県では金刺氏の活動が盛んであった地域に「臼」を女神になぞらえる習慣があったようで、おそらく会津比売神に関連すると考えるが、更科郡に「臼」のつく女神の神社がいくつか見られる。

千曲市八幡にある斎森神社、臼道祖神(臼道祖神社)、武水別神社は一体となって「大頭祭」という新嘗祭を行っている。武水別神社は本来は、多氏系の縣神社に関連して多くみられる「水分(みまくり)」の神社と考える。「北縣主」が金刺氏だったと思われる。ただ、祭神の武水別大神は長野県らしく、建御名方神の子神とされている。

「大頭祭」は現在では氏子が持ち回りで務めるそうだが、言葉的には諏訪大社の「御頭祭」に通じるもののように思う。これも氏子が当番制で神使を務める祭りである。

「斎森」とあるように、おそらく古くは会津比売神を中心とした女神信仰があり、斎宮もいたものかと思う。丹後半島の竹野神社と斎宮のようなものではなかったか、と思う。竹野神社では天照大御神が斎宮を人身御供とするような伝承が残されているが、当地の「頭人」も元は人身御供の祭祀ではなかったのだろうか。何かくじを引いて「三番」に当たったものがその役割を果たすような定めであって、くじを作るか、それとも引くのが斎宮の役目だったのかもしれないと思う。だから、祭りの行列は斎森から始まるのではないだろうか。

社会的に非力な若い女性が人身御供にされる話は各地にあるが、逆に地域社会の中で、ある程度まとめ役を果たす壮年の男性が、非力な女性に選ばれて強制的に人身御供にされる、という点に何だか歪んだ思想が感じられる気がする。

また、火に関する祭りである点、神あるいは「神の使い」に扮した者が殺される祭祀と思われる点、人々が練り歩く点などが、石津太神社(大阪府堺市西区)の「やっさいもっさい祭り」に類似しているように感じる。

雨乞いに関してなど[編集]

この女神は雨乞いにも関連しているように思う。臼道祖神(臼道祖神社)の「神体を水底に沈める」という祭祀は、やはり人身御供の祭祀の名残であると考える。この辺りには、雨乞いに関して人を縛って川に投げ込んだ、という伝承もある。雨乞いあるいは水に関する祭祀は、近隣の雨宮坐日吉神社(長野県千曲市雨宮)の「雨宮の御神事」とも関連するように思う。個人的には

縛った人身御供の頭を川に水につけたり引き上げたりしてさんざん苦しめたあげく溺死させた。

という悪辣な祭祀が行われていたのではないかと思う。群馬県の赤城大明神縁起に、信濃国の「更科五郎とその姉」という悪神が出てくるのだが、更科五郎はそのような悪事を働いて人々を殺したので、しまいには自分が同じ方法で殺された、とも解せるのではないか、という内容である(意岐萩神、参照のこと)。少なくとも、この性格が悪くて、最後に姥捨山に捨てられてしまう「姉」とは会津比売神のことではないか、と思う。

キジも鳴かずば[編集]

長野県長野市信州新町には「キジも鳴かずば」という民間伝承がある。これは若い娘の言動が理由で、父親が人身御供に立てられる、という話である。信州新町の健御名方富命彦神別神社には「斎宮」という地名が残されており、かつて斎宮がいたのではないかと思われる。境内内伊勢社に「伊豆玉姫命」という女神が祀られており、この女神が「壮年の男性を人身御供に求める女神」だったのではないかと推察する。

伊津速比売神と同じ女神なのか、そうではないのか、という点について。夫神も異なることだし「別の女神」とした方が良いと管理人は考える。名前と性質からして、伊豆能売に近い女神と考える。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

参照[編集]

  1. 謙信鞍掛の松/会津比売神社」長野市「信州・風林火山」特設サイト。
  2. 鈴木真年「阿蘇」『百家系図稿』巻六。
  3. 諏訪史料叢書.巻28 73項
  4. 「諏訪下社大祝武居祝系圖略」『諏訪史料叢書.巻28』諏訪教育会、昭和11年、73頁。
  5. 守矢実久「健御名方命御系圖」『諏訪神社略縁起』中村甚之助、明治53年、10頁。
  6. Wikipedia:元善光寺(最終閲覧日:25-02-02)
  7. 元善光寺について、本善光寺HP(最終閲覧日:25-02-02)
  8. Wikipedia:武水別神社(最終閲覧日:25-02-02)
  9. 国選択無形民俗文化財「大頭祭」【武水別神社】、信州千曲観光局(最終閲覧日:25-02-02)