; 古事記
: 倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后たちや御子たちであった。彼らは[[白鳥陵|陵墓]]を築いて周囲を這い回り、「なづきの田の 稲がらに 稲がらに 葡倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后たちや御子たちであった。彼らは陵墓を築いて周囲を這い回り、「なづきの田の 稲がらに 稲がらに 葡(は)ひ廻(もとほ)ろふ 野老蔓(ところづら)」“お墓のそばの田の稲のもみの上で、ところづら(蔓草)のように這い回って、悲しんでいます”との歌を詠んだ。
: すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后や御子たちは竹の切り株で足が傷つき痛めても、その痛さも忘れて泣きながら、その後を追った。その時には、「浅小竹原(あさじのはら) 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな」 “小さい竹の生えた中を進むのは、竹が腰にまとわりついて進みにくい。ああ、私たちは、あなたのように空を飛んで行くことができず、足で歩くしかないのですから”と詠んだ。
: また、白鳥を追って海に入った時には 「海が行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海がは いさよふ」“海に入って進むのは、海の水が腰にまとわりついて進みにくい。まるで、大きな河に生い茂っている水草のように、海ではゆらゆら足を取られます”と詠んだ。
; 古事記
: 白鳥は伊勢を出て、[[河内国|河内]]の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまう。白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまう。
; 日本書紀
: 白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原([[奈良県]][[御所市]])→河内古市([[大阪府]][[羽曳野市]])とされ、その3箇所に陵墓を作ったとする。こうして白鳥は天に昇った。その後天皇は、武部([[健部]]・[[建部]])を日本武尊の御名代とした。白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)とされ、その3箇所に陵墓を作ったとする。こうして白鳥は天に昇った。その後天皇は、武部(健部・建部)を日本武尊の御名代とした。
:『古事記』と異なり、大和に飛来する点が注目される。
== 墓 ==
[[File:Nobono Otsuka Kofun haisho.JPG|thumb|200px|right|{{center|日本武尊 [[能褒野王塚古墳|能褒野墓]]<br />([[三重県]][[亀山市]])}}]][[File:Kotohikihara Tomb, haisho.jpg|thumb|200px|right|{{center|日本武尊 (大和)白鳥陵<br />([[奈良県]][[御所市]])}}]][[File:Karusato Otsuka Kofun, haisho.jpg|thumb|200px|right|{{center|日本武尊 [[軽里大塚古墳|(河内)白鳥陵]]<br />([[大阪府]][[羽曳野市]])}}]][[陵墓|墓]]は、[[宮内庁]]により次の3ヶ所に治定されている墓は、宮内庁により次の3ヶ所に治定されている<ref>『宮内庁書陵部陵墓地形図集成』 学生社、1999年、巻末の「歴代順陵墓等一覧」表。</ref>(能褒野墓に白鳥2陵を付属)。* '''能褒野墓'''(のぼののはか、[[三重県]][[亀山市]]田村町、{{Coord|34|53|4.36|N|136|28|55.09|E|region:JP-24|name=能褒野墓(日本武尊墓)}})(のぼののはか、三重県亀山市田村町*: 宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「[[能褒野王塚古墳]]」。墳丘長90メートルの[[前方後円墳]]で、[[4世紀]宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「能褒野王塚古墳」。墳丘長90メートルの前方後円墳]末の築造と推定される。で、4世紀末の築造と推定される。
* '''白鳥陵'''(しらとりのみささぎ、[[奈良県]][[御所市]]富田、{{Coord|34|26|43.92|N|135|45|1.25|E|region:JP-24|name=白鳥陵(日本武尊墓)}})
*: 宮内庁上の形式は長方丘。かつては「権現山」・「天王山」とも{{Sfn|白鳥陵(国史)}}。幅約28メートル×約45メートルの長方丘とされる{{Sfn|白鳥陵(国史)}}。一説には[[円墳]]<ref name="大和白鳥陵"/>。