墓は、宮内庁により次の3ヶ所に治定されている<ref>『宮内庁書陵部陵墓地形図集成』 学生社、1999年、巻末の「歴代順陵墓等一覧」表。</ref>(能褒野墓に白鳥2陵を付属)。
* '''能褒野墓'''(のぼののはか、三重県亀山市田村町
*: 宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「能褒野王塚古墳」。墳丘長90メートルの前方後円墳]で、4世紀末の築造と推定される。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「能褒野王塚古墳」。墳丘長90メートルの前方後円墳で、4世紀末の築造と推定される。* '''白鳥陵'''(しらとりのみささぎ、[[奈良県]][[御所市]]富田、{{Coord|34|26|43.92|N|135|45|1.25|E|region:JP-24|name=白鳥陵(日本武尊墓)}})(しらとりのみささぎ、奈良県御所市富田)*: 宮内庁上の形式は長方丘。かつては「権現山」・「天王山」とも{{Sfn|<ref>白鳥陵(国史)}}</ref>。幅約28メートル×約45メートルの長方丘とされる{{Sfn|<ref>白鳥陵(国史)}}。一説には[[円墳]]</ref>。一説には円墳<ref name="大和白鳥陵"/>。* '''白鳥陵'''(しらとりのみささぎ、[[大阪府]][[羽曳野市]]軽里、{{Coord|34|33|4.61|N|135|36|14.00|E|region:JP-24|name=白鳥陵(日本武尊墓)}})(しらとりのみささぎ、大阪府羽曳野市軽里)*: 宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「[[軽里大塚古墳]]」・「前の山古墳」・「白鳥陵古墳」。墳丘長190メートルの前方後円墳で、[[5世紀]]後半の築造と推定される。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「軽里大塚古墳」・「前の山古墳」・「白鳥陵古墳」。墳丘長190メートルの前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定される。
=== 古典史料の記述 ===
!地域!!日本書紀!!古事記!!延喜式!!現在の治定
|-
|'''伊勢'''||能褒野陵||能煩野に陵||能裒野墓||[[能褒野王塚古墳|能褒野墓]]
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|'''大和'''||琴弾原に陵||(記載なし)||(記載なし)||白鳥陵
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|'''河内'''||旧市邑に陵||志幾に陵<br />(白鳥御陵)||(記載なし)||[[軽里大塚古墳|白鳥陵]]
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|'''備考'''||3陵の総称として<br />「白鳥陵」とする|| || ||
* 日本書紀
*: 景行天皇40年是歳条では、日本武尊は「'''能褒野'''」で没し、それを聞いた天皇は官人に命じて伊勢国の「能褒野陵(のぼののみささぎ)」に埋葬させた。しかし日本武尊は白鳥となって飛び立ち、倭の'''琴弾原'''(ことひきはら)、次いで河内の'''旧市邑'''(ふるいちのむら、古市邑)に留まったのでそれぞれの地に陵が造られた。そしてこれら3陵をして「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」と称し、これらには日本武尊の衣冠が埋葬されたという<ref name="日本書紀"/><ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。
*: [[仁徳天皇]]60年条仁徳天皇60年条<ref group="原">『日本書紀』仁徳天皇60年10月条。</ref>{{Sfn|亀山市史 通史編 第3章第1節}}では、「白鳥陵」(上記3陵を指すものか第3章第1節では、「白鳥陵」(上記3陵を指すものか<ref name="亀山市史 第3章第1節">[http://kameyamarekihaku.jp/sisi/tuusiHP/kochuusei/honbun/03/01/pdflive.html 「通史編 第3章第1節 ヤマトタケル伝承と鈴鹿地域」][http://kameyamarekihaku.jp/sisi/index.html 『亀山市史』](IT市史、亀山市歴史博物館)。</ref>)は空である旨と、天皇が白鳥陵の陵守廃止を思い止まった旨が記されている<ref>『新編日本古典文学全集 3 日本書紀 (2)』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、pp. 66-67。</ref><ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。
* 古事記
*: 景行天皇記では、倭建命は伊勢の「'''能煩野'''」で没したとし、倭建命の后・子らが能煩野に下向して陵を造ったとする。しかし倭建命は白い千鳥となって伊勢国から飛び立ち、河内国の'''志幾'''(しき)に留まったので、その地に陵を造り「白鳥御陵(しらとりのみささぎ)」と称したという<ref name="古事記"/><ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。