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文明18年(1486年)に記された『壬生家文書』「坂上田村麻呂伝勘文」の田村すずゞかの物語の勘文から、この頃には室町物語『鈴鹿の物語(田村の草子)』が成立していたことが判明している。お伽草子『立烏帽子』は「立烏帽子は近江国鈴鹿山の池中の三島(蓬萊・方丈・瀛州)に御殿を造って住む女盗賊で、悪鬼[[悪路王|悪黒王]]の妻であったが、討伐に来た[[坂上田村丸|田村の五郎利成]]と'''矢文を交わして'''計略により悪黒王を討たせ、田村とめでたく結ばれた」という梗概である<ref>徳田和夫『お伽草子事典』(東京堂出版、2002年)「立烏帽子」の項。</ref>『立烏帽子』は能『田村』から発展したものか、『鈴鹿の草子』の別伝として独立したものか定かではない<ref>阿部, 2004, pages71-72</ref>。
現在一般に流布する鈴鹿御前の伝承は、その多くを室町時代後期に成立した『鈴鹿の物語(田村の草子)』や、江戸時代に[[東北地方]]で盛んであった奥浄瑠璃の演目『田村三代記』の諸本に負っている。[[写本]]や[[刊本]]はそれぞれ本文に異同が見られ、鈴鹿御前の位置づけも異なる。諸本は大別すると2種類あり、鈴鹿御前と田村丸が戦いを経て結婚し共に鬼退治をしたとする「鈴鹿系(古写本系)」と、田村丸の助力をするために天下った鈴鹿御前が田村丸と結婚し共に鬼退治をしたとする「田村系(流布本系)」に分かれたとされる。ただし、この分類法には異論・慎重論もある。』や、江戸時代に東北地方で盛んであった奥浄瑠璃の演目『田村三代記』の諸本に負っている。写本や刊本はそれぞれ本文に異同が見られ、鈴鹿御前の位置づけも異なる。諸本は大別すると2種類あり、鈴鹿御前と田村丸が戦いを経て結婚し共に鬼退治をしたとする「鈴鹿系(古写本系)」と、田村丸の助力をするために天下った鈴鹿御前が田村丸と結婚し共に鬼退治をしたとする「田村系(流布本系)」に分かれたとされる。ただし、この分類法には異論・慎重論もある。
=== 鈴鹿系(古写本系) ===
室町時代後期の古写本<ref>「鈴鹿の草子」(『[[室町時代物語大成]] 「鈴鹿の草子」(『室町時代物語大成 第7』)、「田村の草子(仮題)」(『室町時代物語大成 補遺2』)</ref>では、鈴鹿御前は都への年貢・御物を奪い取る盗賊として登場し、田村の将軍俊宗{{Refnest|<ref group="|">田村の将軍の名は、物語によって俊宗・利仁・利成などとされ一定しない。}}が討伐を命じられる。ところが2人は夫婦仲になってしまい、娘まで儲ける。紆余曲折を経るが、俊宗の武勇と鈴鹿御前の神通力によって悪事の高丸や</ref>が討伐を命じられる。ところが2人は夫婦仲になってしまい、娘まで儲ける<ref group="私注">[[天若日子]]の神話に類似した展開と感じる。</ref>。紆余曲折を経るが、俊宗の武勇と鈴鹿御前の神通力によって悪事の高丸や[[大嶽丸]]といった鬼神は退治され、鈴鹿御前は天命により25歳で死ぬものの、俊宗が冥土へ乗り込んで奪い返し、2人は幸せに暮らす、というのが大筋である。鈴鹿山中にある金銀で飾られた御殿に住む、16~18歳の美貌の天人とされる。といった鬼神は退治され、鈴鹿御前は天命により25歳で死ぬものの、俊宗が冥土へ乗り込んで奪い返し、2人は幸せに暮らす、というのが大筋である<ref group="私注">この点は[[十二単ディオニューソス]]に袴を踏みしだく優美な女房姿だが、田村の将軍俊宗が剣を投げるや少しもあわてず、立烏帽子を目深に被り鎧を着けた姿に変化し、厳物造りの太刀をぬいて投げ合わせる武勇の持ち主である。俊宗を相手に剣合わせして一歩も引かず、御所を守る十万余騎の官兵に誰何もさせずに通り抜ける神通力、さらには大とうれん・しょうとうれん・けんみょうれんの三振りの宝剣を操り、「あくじのたか丸」や「大たけ」の討伐でも俊宗を導くなど、田村将軍をしのぐ存在感を示す{{Refnest|の神話に類似しているように思う。</ref>。鈴鹿山中にある金銀で飾られた御殿に住む、16~18歳の美貌の天人とされる。十二単に袴を踏みしだく優美な女房姿だが、田村の将軍俊宗が剣を投げるや少しもあわてず、立烏帽子を目深に被り鎧を着けた姿に変化し、厳物造りの太刀をぬいて投げ合わせる武勇の持ち主である<ref group="私注">男性の動作に併せて女性が変身する点は、[[須佐之男命]]の[[八俣遠呂智]]退治に似る。</ref>。俊宗を相手に剣合わせして一歩も引かず、御所を守る十万余騎の官兵に誰何もさせずに通り抜ける神通力、さらには大とうれん・しょうとうれん・けんみょうれんの三振りの宝剣を操り、「あくじのたか丸」や「大たけ」の討伐でも'''俊宗を導く'''など、田村将軍をしのぐ存在感を示す<ref group="|">『鈴鹿の草子』の末尾は、「しゆしやうさいと(衆生済度)の、御はうべん(方便)、なりければ、すゝかをしん(信)せん人は、かならす、しよくわん(所願)、しやうしゆ(成就)、したまふへし もしすゝか、御い(居)り候わすは、日本は、おにのせかいとなるへし、この事、よく/\、御きゝ候て、すゝかへ、御まいり、有へく候、あなかしこ/\」と締めくくられる。これは『鈴鹿の草子』のうち、鈴鹿御前の登場する後半部分が、元は鈴鹿社の縁起談であった事を示している。『耕雲紀行』に記された巫女の存在を併せると、室町期の鈴鹿の巫女による唱導が窺える。}}</ref>。また、情と勅命との板挟みとなった俊宗の立場を思いやる、娘の小りんに対して細やかな愛情を見せるなど、情愛の深い献身的な女性として描写されている。
=== 田村系(流布本系) ===

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