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寛政9年(1797年)刊『東海道名所図会』では、 土山宿|土山田村神社は神宝として田村将軍像や鈴鹿御前像を有し、祭神を将軍田村麿・嵯峨天皇・鈴鹿御前としている。現在は主祭神を坂上田村麻呂公・嵯峨天皇・倭姫命としているが、江戸時代には鈴鹿御前と倭姫命が同一視されていた様子を窺える。
[[内藤正敏]]は、鈴鹿御前や立烏帽子が田村麻呂の鬼退治の勝敗の鍵を握るのは鬼神と天女という両義的な性格をもち、天皇の祖神を祀る伊勢神宮のある伊勢国と平安京の境界の鈴鹿峠の神だからだろうとしている{{Sfn|内藤正敏は、鈴鹿御前や立烏帽子が田村麻呂の鬼退治の勝敗の鍵を握るのは鬼神と天女という両義的な性格をもち、天皇の祖神を祀る伊勢神宮のある伊勢国と平安京の境界の鈴鹿峠の神だからだろうとしている<ref>内藤|, 2007|pages=220, pages220-223}}</ref>
== 伝説の概要 ==
[[文明 (日本)|文明]]18年([[1486年]])に記された『[[壬生家文書]]』「坂上田村麻呂伝勘文」の田村すずゞかの物語の[[勘文]]から、この頃には室町物語『鈴鹿の物語(田村の草子)』が成立していたことが判明している。お伽草子『立烏帽子』は「立烏帽子は近江国鈴鹿山の池中の三島([[蓬萊]]・[[方丈]]・[[瀛州]])に御殿を造って住む女盗賊で、悪鬼文明18年(1486年)に記された『壬生家文書』「坂上田村麻呂伝勘文」の田村すずゞかの物語の勘文から、この頃には室町物語『鈴鹿の物語(田村の草子)』が成立していたことが判明している。お伽草子『立烏帽子』は「立烏帽子は近江国鈴鹿山の池中の三島(蓬萊・方丈・瀛州)に御殿を造って住む女盗賊で、悪鬼[[悪路王|悪黒王]]の妻であったが、討伐に来た[[坂上田村丸|田村の五郎利成]]と矢文を交わして計略により悪黒王を討たせ、田村とめでたく結ばれた」という梗概であると'''矢文を交わして'''計略により悪黒王を討たせ、田村とめでたく結ばれた」という梗概である<ref>[[徳田和夫]]『お伽草子事典』(東京堂出版、2002年)「立烏帽子」の項。徳田和夫『お伽草子事典』(東京堂出版、2002年)「立烏帽子」の項。</ref>『立烏帽子』は[[能]]『[[田村 (能)|田村]]』から発展したものか、『鈴鹿の草子』の別伝として独立したものか定かではない{{Sfn|『立烏帽子』は能『田村』から発展したものか、『鈴鹿の草子』の別伝として独立したものか定かではない<ref>阿部|, 2004|pages=71, pages71-72}}</ref>
現在一般に流布する鈴鹿御前の伝承は、その多くを室町時代後期に成立した『鈴鹿の物語(田村の草子)』や、江戸時代に[[東北地方]]で盛んであった奥浄瑠璃の演目『田村三代記』の諸本に負っている。[[写本]]や[[刊本]]はそれぞれ本文に異同が見られ、鈴鹿御前の位置づけも異なる。諸本は大別すると2種類あり、鈴鹿御前と田村丸が戦いを経て結婚し共に鬼退治をしたとする「鈴鹿系(古写本系)」と、田村丸の助力をするために天下った鈴鹿御前が田村丸と結婚し共に鬼退治をしたとする「田村系(流布本系)」に分かれたとされる。ただし、この分類法には異論・慎重論もある。

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