* 李鮮馥(이선복、Yi Seon-bok、ソウル大学)は、「われわれはよく、われわれ自身を檀君の子孫と称し、5000年の悠久な歴史をもつ単一民族であると称している。この言葉を額面どおり受け入れれば、韓民族は5000年前にひとつの民族集団としてその実体が完成され、そのとき完成された実体が変化することなく、そのまま現在まで続いたという意味になろう。しかしこの言葉は、われわれの歴史意識と民族意識の鼓吹に必要な教育的手段にはなるであろうが、客観的証拠に立脚した科学的で歴史的な事実にはなりえない」と述べている<ref>金, 2012, p52-53</ref><ref>이선복, 2003, 화석인골 연구와 한민족의 기원, 韓國史市民講座 Vol.32, 일조각, pages64-65</ref>。
* 李基白(이기백, 이기백)、西江大学)は、「天帝の息子である桓雄が人間になることに成功した熊女と結婚して檀君を産んだという記録は歴史ではなく神話です。神話はそれが創作された理由があり、その創作された理由をみつけるのが歴史家の使命です」「神話のなかから民族的自尊心をみつける必要性を探していた時代は過ぎ去った過去です。また、歴史が古ければ民族の自慢になるというものでもなく、神話を精神的玉座に奉っても民族意識が高まることもない」と述べている<ref name="月刊朝鮮"/>。
* 宋鎬晸({{lang-ko|송호정}}、[[韓国教員大学校|韓国教員大学]])は、{{仮リンク|徐居正|zh|徐居正}}らが著した『[[東国通鑑]]』が[[中国]][[北宋]]の[[司馬光]]の『[[資治通鑑]]』を参考にして、[[堯]]の即位を紀元前2357年に設定し、堯の即位より25年後の紀元前2333年に檀君が古朝鮮を建国したと設定したのであり、檀君朝鮮の建国年代に具体的な根拠があるわけではなく、檀君建国年代としては意味がないと指摘している<ref name="skyedaily">{{Cite news|author=|url=https://www.skyedaily.com/news/news_view.html?ID=127300|title=고조선(단군조선)의 건국 기원(서기전 24세기) 불신론의 실체|newspaper=|publisher=skyedaily|date=2021-04-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211125162607/https://www.skyedaily.com/news/news_view.html?ID=127300|archivedate=2021-11-25}}</ref>。
* {{仮リンク|盧泰敦|ko|노태돈}}({{lang-ko|노태돈}}、[[ソウル大学校|ソウル大学]])は、檀君を[[朝鮮の歴史]]における建国始祖として認識したのは[[高麗|高麗後期]]であり、[[モンゴルの高麗侵攻]]により、[[国土]]が蹂躙され、高麗は[[三韓]]それぞれの民族意識を統合し、「[[三韓]]すべてが古朝鮮から誕生した同族の歴史共同体」という民族の象徴として檀君を強調した<ref name="ハンギョレ21"/>。したがって、[[日本統治時代の朝鮮|日本の植民地時代]]に[[民族主義|民族主義者]]が檀君を強調したのは、民族を統合するためだった<ref name="ハンギョレ21"/>。しかし、韓国の現代社会では、合理性と客観性にそぐわない、すなわち[[国家主義]]・[[全体主義]]の強化のための[[記号]]として檀君を利用するのは歴史の[[反動]]でしかなく<ref name="ハンギョレ21">{{Cite news|author=|date=1999-09-16|title=실체와 상징을 구분하자|publisher=|newspaper={{仮リンク|ハンギョレ21|ko|한겨레21}}|url=http://legacy.h21.hani.co.kr/h21/data/L990906/1p7m9602.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211012003611/http://legacy.h21.hani.co.kr/h21/data/L990906/1p7m9602.html|archivedate=2021-10-12}}</ref>、檀君朝鮮が紀元前2333年に建国したというのは、[[中国]]の[[堯]]と同時代に朝鮮に[[国家]]が存在し、[[朝鮮の歴史]]が[[中国の歴史]]に劣らないほど永いということを主張するためであり、歴史的事実ではなく、朝鮮上古の紀年を間延びさせているに過ぎず、「紀元前2333年という檀君朝鮮建国年代は、考古学調査による[[青銅器時代|青銅器文化]]をみたときに、[[紀元前10世紀]]前後でしかない」と主張している<ref name="京郷新聞0903"/>。
* 李基東({{lang-ko|이기동}}、[[東国大学校|東国大学]])は、「北朝鮮は[[1980年代|1980年代以前]]は、檀君神話は[[奴隷]]所有者階級が奴隷の搾取を正統化するためにつくられた社会思想と規定したが、[[1993年]]の[[檀君陵]]の発掘以後、檀君を民族の始祖として奉じているのは、北朝鮮の現政権を正統化する意図が隠されている」と指摘した<ref name="京郷新聞0903">{{Cite news|author=|url=https://www.khan.co.kr/culture/scholarship-heritage/article/200009031935331|title=‘단군은 누구인가’다양한 학문적 해석|newspaper=[[京郷新聞]]|publisher=|date=2000-09-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211012013904/https://www.khan.co.kr/culture/scholarship-heritage/article/200009031935331|archivedate=2021-10-12}}</ref>。
* 徐永大({{lang-ko|서영대}}、[[仁荷大学校|仁荷大学]])は、「[[神話]]は架空、歴史は真実」という[[誤った二分法|二分法]]を批判、「檀君の[[伝承]]が神話的な形で表現されたのは、[[古朝鮮]]の[[権力]]を正統化する意図がある」とし、[[桓雄]]が天から降りてきたのは種の移動を反映、桓雄と熊女が婚姻して檀君を産んだのは、先進的移民勢力と後進的土着勢力が連合して古朝鮮が誕生したことを意味し、古朝鮮の始祖を神聖視し、支配を正統化する意図があると解釈する<ref name="京郷新聞0903"/>。
* [[鄭早苗]]は、「[[日本]]でも昨年からこの檀君が実在したという[[ニュース]]は[[在日韓国・朝鮮人]]の間でも話題になっている。今から四三二七年前に檀君が[[古朝鮮]]で即位したということは『[[東国通鑑]]』などで知られ、檀君は『[[三国遺事]]』ではじめて登場して以来、古朝鮮の開祖として親しまれ、今も韓国の[[新聞]]で[[檀君紀元|檀君紀年]]が[[西暦]]と併記されているほどであるが、誰も実在の人物とは考えていなかったであろう。[[檀君陵]]の真偽はともかくとして、北朝鮮が国家的威信をもって公表した檀君実在説は、[[神話]]が形成される社会的状況と政権担当者の史観を検討する上で、現代の私達に示唆を与えているように思われる。北朝鮮の[[首都]][[平壌直轄市|平壌]]は朝鮮民族史にとって古代から発展の中心であったとみなすことが、[[朝鮮統一問題|南北統一]]にとって必要な論理であると北朝鮮では考えられているのかも知れない。しかし文献から見れば、古朝鮮時代の民族構成だけでなく[[高句麗]]の民族構成も不明のままである。発掘されたという『檀君陵』のある平壌は高句麗第二の王都であった中国[[吉林省]][[集安市|集安]]から四二七年に第三の王都として移され、六六八年に高句麗が滅亡するまで首都であっただけでなく、その後の韓国・朝鮮史のなかでも都市として重要な位置を占めてきた。高句麗や古朝鮮の地域はかつて[[東夷]]と呼ばれて来た所で、[[夫余]]、[[挹婁]]、[[粛慎 (中国)|粛慎]]、[[沃沮|東沃沮]]、[[濊]]、[[辰韓]]、[[弁辰]]、[[馬韓]]、[[伽耶|加羅]]、[[百済]]、[[新羅]]、[[倭]]等多くの民族や国が存亡してきた複雑な歴史が記録されている。文献では檀君伝説は十三世紀末の『[[三国遺事]]』以前の記録がないため、いわゆる檀君朝鮮は東夷伝のなかには含まれず、韓国・朝鮮史は[[箕子朝鮮]]、[[衛氏朝鮮|衛満朝鮮]]から始まり、[[漢四郡|漢の四郡]]の時代から[[玄菟郡]]下の県名のひとつとして高句麗の名称が記載され、その後、高句麗の建国から[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]に入っていく。朝鮮半島中南部の百済、新羅は[[三韓|韓族]]が主たる住民であったと考えられるが、高句麗は多民族が雑居し、また王系も[[夫余|夫余系]]であるなど複雑である」と評する<ref>{{Cite book|和書|title=「三国遺事」王暦の高句麗と新羅|author=鄭早苗|authorlink=鄭早苗|series=大谷学報 73 (3)|publisher=[[大谷学会]]|page=36|date=1994-03}}</ref>。
== 日本における檀君研究史 ==