また、阿遅鉏高日子根と下照比売命が「同母の兄妹である」と但し書きされたのは、「天若日子と下照比売命」が1対の夫婦神である、としたかったから、という「'''父系強調文化'''」が原因であったかもしれないと思う。父系が強調される文化で日本の場合、一人の女性が複数の夫を持つことを公に認められた例はないのではないか。それでは子供の父親が誰なのか分からなくなって、「父系の文化」が成立しなくなるからである。しかし、「母系の文化」では一人の女性に複数の男性が同時期に通うことは珍しいことではない。下照比売命が「母系の女神」が変化したものであれば、本来彼女には「'''定まった夫がいない'''」、あるいは「'''複数の夫がいる'''」のが'''正しい姿'''なので、そうであるとすれば、天若日子も阿遅鉏高日子根も、それぞれが別の神々だったとしても、'''同時期にそれぞれ同じように下照比売命の夫であった'''、としても何ら不思議はない。
話を説話に戻すと、「止屋の淵」と「日本武尊の征討」では、勝者は一旦は敗者を倒すものの、中央の朝廷の不況を得て、いずれも出雲からは撤退している、といえる。出雲振根は討伐され、日本武尊は東征を命じられて東国に去る。ということは、阿遅鉏高日子根を擁する勢力も、少なくともその一部は中央(大和)での権力闘争に敗れて、出雲より撤退したという歴史的事実があったのではないか、と推察する。また、いずれの説話にも直接、間接に出雲国造家の先祖が登場すること、少なくとも出雲大社に関する祭祀が一時期途絶していて、それが改めて出雲国造家の先祖が祭祀者となって再開あるいは開始されたことが窺える。要するにいずれの説話も
* 出雲に進出した特定の勢力(賀茂氏系か?)が大和での権力闘争に敗れた結果、出雲から撤退した。
* 出雲国造家が国造の地位と出雲大社の祭祀者としての地位を確立した。
という2つの歴史的事実を投影した説話といえると思う。この時期は崇神天皇の御代とされ、崇神天皇は応神・仁徳天皇よりも以前の天皇とされているため、実在性が高い天皇といわれる「倭の五王(雄略天皇他)」よりも以前の時代の話、すなわち4世紀以前の歴史的事実であろう、と思われる。
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