差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
670 バイト追加 、 2025年1月22日 (水)
『延喜式』神名帳の大和国・山城国には「○○山口(坐)神社」と称する神社が15社記載されており、その中の一つが当社である。他の「○○山口(坐)神社」と同様、水源となる山間の地に山の神を祀り国家的に管理・祭祀したものと思われる。「○○山口(坐)神社」は全て『延喜式』臨時祭の祈雨神祭八十五座に加えられており、このことからも「○○山口(坐)神社」が水を司る神として朝廷から重視されたことが窺える。
当社は二上山・雌岳の東麓に立地しており、この山の水源や樹木を守護する神であったと共に、非常に古くからあったと思われる近隣の「當麻寺」と合わせて当地における聖域として信仰されたことが窺える。江戸時代以前には「新宮」と呼ばれると共に「熊野権現社」とも呼ばれていた。このため一時期は熊野神を祀っていたと思われるものの、現在はそのような形跡はない当社は二上山・雌岳の東麓に立地しており、この山の水源や樹木を守護する神であったと共に、非常に古くからあったと思われる近隣の「當麻寺」と合わせて当地における聖域として信仰されたことが窺える。江戸時代以前には「新宮」と呼ばれると共に「熊野権現社」とも呼ばれていた。このため一時期は熊野神を祀っていたと思われるものの、現在はそのような形跡はない。 『先代旧事本紀』にはニギハヤヒが降臨する際に随伴した二十五部の天物部の中に「'''当麻物部'''」が見え、当地に物部氏の一族が居住していたことが考えられる。一説にはこの「当麻物部」が奉斎したのが当社であったともされる。 『日本書紀』によれば垂仁天皇の御代に大和国當麻邑において「当麻蹴速」なる人物がおり野見宿禰と角力の勝負をしたことが見えている。この勝負により蹴速は死亡し野見宿禰の勝利となり、蹴速の領地は没収されて野見宿禰のものとなったと記されている<ref>[https://jun-yu-roku.com/yamato-katsuge-taima-taimayamaguchi/ 当麻山口神社 (奈良県葛城市當麻)]、神社巡遊録(最終閲覧日:25-01-21)</ref>。
== 私的考察 ==

案内メニュー