皇太子時代の淳和天皇は夢告に従い、四天王寺創建に伴って聖徳太子が開基した京都頂法寺(六角堂)にて、丹後国余佐郡香河(かご)村の娘と出会い、これを第四妃に迎えた。香河では'''小萩(こはぎ)'''という幼名が伝わり、この小萩('''真名井御前''')をモデルとした小萩観音を祀る寺院がある。古代、丹後国は中央氏族とは別系統の氏族(安曇氏などの海人系氏族)の勢力圏であり、大王家に対し后妃を出す氏族であった。この余佐郡の娘、小萩は日下部氏の系統である可能性が高い。
『元亨釈書』によれば、淳和天皇第四妃真名井御前=如意尼は、[[如意輪観音]]への信仰が厚く、念願であった出家を行うために天長5年([[828年]])にひそかに宮中を抜け、頂法寺(六角堂)で修行をし、その後今の西宮浜(御前浜)の浜南宮(現・[[西宮神社]])から[[廣田神社]]、その神奈備山である甲山へと入っていった。この時、妃は[[空海]]の協力を仰ぎ、これより満3年間、神呪寺にて修行を行ったという。『元亨釈書』によれば、淳和天皇第四妃真名井御前('''如意尼''')は、如意輪観音への信仰が厚く、念願であった出家を行うために天長5年(828年)にひそかに宮中を抜け、頂法寺(六角堂)で修行をし、その後今の西宮浜(御前浜)の浜南宮(現・西宮神社)から廣田神社、その神奈備山である甲山へと入っていった。この時、妃は空海の協力を仰ぎ、これより満3年間、神呪寺にて修行を行ったという。
天長7年([[830年]])に空海は本尊として山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、[[如意輪観音]]像を作ったという。この如意輪観音像を本尊として、天長8年([[831年]])10月18日に本堂は落慶した。同日、妃は空海より剃髪を受けて僧名を如意尼とした。如意尼が出家する以前の名前は真井御前(まないごぜん)と称されていた。天長7年(830年)に空海は本尊として山頂の巨大な'''桜の木を妃の体の大きさに刻んで'''、如意輪観音像を作ったという。この如意輪観音像を本尊として、天長8年(831年)10月18日に本堂は落慶した。同日、妃は空海より剃髪を受けて僧名を如意尼とした。如意尼が出家する以前の名前は'''真名井御前'''(まないごぜん)と称されていた。
この時、如意尼と一緒に出家した二人の尼、如一と如円は[[和気清麻呂]]の孫娘であった。