<blockquote>《口語解釈例》 <ref>※振り仮名は口語体。[ ]内は文意を整えるための補足文。( )内の※に続く記述は注釈。</ref>常陸国(ひたちのくに)の那賀郡(なかのこおり)にある交通の要衝・平津駅家(ひらつのうまや)から西へ一二(いちに)里(り)もしくは1里・2里ほど行った所<ref group="*">「一二(いちに)」は「わずか」の意。従って「一二里」は「里の単位でわずかな距離」の意。しかし「一二里」を「1・2里」の意で捉えれば、具体的距離を示すものとなり、古代日本の1里は約5.3km<!--約533.5m-->、2里は約10.7km<!--約10677.9m-->と、数値を割り出すことができる。</ref>に岡(おか)(丘)があり、名を「大櫛(おおくし)」という。大昔、[この地に]人がいた。[その人の]体(からだ)は極めて長大(ちょうだい)で、岡の上にいながらにして手は海浜の蜃(うむき)を掘り起こしてしまう。[それほどの巨人であった。][ここでいう蜃(うむき)とは]大蛤(おおうむき)である(※『うむき(蜃、蛤)』はハマグリの古語)<ref group="*">市井の娯楽本やインターネット上の記述で、本文中の「蜃」を妖怪の「蜃(しん)」と関連付けるものが見られるが、ここで語られている「蜃(うむき、うむぎ)」は実体があって食用にされる貝類の「蛤(うむき、うむぎ)」、すなわち「蛤(はまぐり)」のことであって、妖怪ではない。</ref>。その[巨人の]食べた貝[の殻]は、積もり積もって岡になった。当時の人(※現代〈すなわち、奈良時代〉の我々から見て大昔の人々)は[“大量の貝が朽ちている”意をもって、この岡を]「大朽(おおくち)」と呼んだが、[それが訛って]今は「大櫛之岡(おおくしのおか)」という(※比定地は大串貝塚(おおぐし かいづか)。その所在地は、現在の茨城県水戸市塩崎町1064-1<ref group="*">水戸市塩崎町1064-1</ref>、かつての東茨城郡常澄村塩崎大串貝塚<ref group="*">江戸時代における常陸国茨城郡塩ヶ崎村、幕藩体制下の常州水戸藩知行等塩ヶ崎村。</ref>)。その[巨人の]足跡は、おおよそ、長さ40歩あまり、幅20歩あまりで、尿の穴(※立ち小便によって穿たれた穴)は直径20歩あまりであった。</blockquote>
{{Anchors|大櫛之岡_史上評価}}==== 大櫛之岡、史上評価 ====[[考古学]]等の諸分野においても、係る「大櫛之岡の巨人伝説」とその比定地・[[大串貝塚]]は相当に重要で、考古学等の諸分野においても、係る「大櫛之岡の巨人伝説」とその比定地・大串貝塚は相当に重要で、'''[[縄文時代]]の[[貝塚]][[遺跡]]が[[文献]]に記されている最古の例縄文時代の貝塚遺跡が文献に記されている最古の例'''<ref name="Kb_Nipponica">{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/大串貝塚 |title=, 大串貝塚 |work=[[小学館]]『[[日本大百科全書]]:ニッポニカ』 |publisher=, 小学館『日本大百科全書:ニッポニカ』 , コトバンク |accessdate=, 2019-05-20 }}</ref><ref name="Kb_史跡G">{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/大串貝塚 |title=, 大串貝塚 |work=[[講談社]]『国指定史跡ガイド』 |publisher=, 講談社『国指定史跡ガイド』 , コトバンク |accessdate=, 2019-05-20 }}</ref>、もっと言えば、'''[[石器時代]]遺跡の[[記録]]された日本最古の例石器時代遺跡の記録された日本最古の例'''<ref name="Kb_Brit">{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/大串貝塚 |title=, 大串貝塚 |work=『[[ブリタニカ国際大百科事典]] , 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』 |publisher=, コトバンク |accessdate=, 2019-05-20 }}</ref><ref name="Kb_精選国語">{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/大串貝塚 |title=, 大串貝塚 |work=, 小学館『精選版 日本国語大辞典』 |publisher=, コトバンク |accessdate=, 2019-05-20 }}</ref>として知られている。
=== 播磨国風土記 ===