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235 バイト除去 、 2022年3月20日 (日) 00:16
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<blockquote>《原 文》 <ref>※縮小文字は原本上の補足。※和字間隔は現代の補足。</ref>有岡 名曰 大櫛 上古有人 體極長大 身居丘壟之上 手摎海濱之蜃(大蛤也) 其所食貝 積聚成岡 時人 取大朽之義 今謂大櫛之岡 其踐跡 (長卌餘歩 廣廿餘歩 尿穴徑可廿餘歩許)、『常陸國風土記』那賀略記</blockquote>
<blockquote>《書き下し文》 <ref>振り仮名は文語体。</ref>平津駅家(ひらつのうまや)の西一二(いちに)里(り)に岡(をか)あり。名を大櫛(おほくし)と曰(い)ふ。上古(いにしへ)、人あり。體(かたち)は極(きは)めて長大(たけたか)く、身(み)は丘壟(をか)の上(うへ)に居(ゐ)ながら、手は海浜(うみべた)の蜃(うむき)を摎(くじ)りぬ。大蛤(おほうむき)也(なり)。其(そ)の食(く)らひし貝(かひ)、積聚(つも)りて岡(をか)と成(なり)き。時人(ときのひと)、大朽(おほくち)の義(こころ)を取(と)りて、今は大櫛之岡(おほくしのをか)と謂(い)ふ。その践(ふ)みし跡(あと)は、長さ卌(しじふ) 歩(あし)余(あまり)、広さ廿(にじふ)歩(あし)余(あまり)、尿穴(ゆまりのあな)の径(わたり)廿(にじふ)歩(あし)余(あまり)許(ばかり)なり。</blockquote>
<blockquote>《口語解釈例》 <ref>※振り仮名は口語体。[ ]内は文意を整えるための補足文。( )内の※に続く記述は注釈。</ref>常陸国(ひたちのくに)の那賀郡(なかのこおり)にある交通の要衝・平津駅家(ひらつのうまや)から西へ一二(いちに)里(り)もしくは1里・2里ほど行った所<ref group="*">「一二(いちに)」は「わずか」の意。従って「一二里」は「里の単位でわずかな距離」の意。しかし「一二里」を「1・2里」の意で捉えれば、具体的距離を示すものとなり、古代日本の1里は約5.3km<!--約533.5m-->、2里は約10.7km<!--約10677.9m-->と、数値を割り出すことができる。</ref>に岡(おか)(丘)があり、名を「大櫛(おおくし)」という。大昔、[この地に]人がいた。[その人の]体(からだ)は極めて長大(ちょうだい)で、岡の上にいながらにして手は海浜の蜃(うむき)を掘り起こしてしまう。[それほどの巨人であった。][ここでいう蜃(うむき)とは]大蛤(おおうむき)である(※『うむき(蜃、蛤)』はハマグリの古語)<ref group="*">市井の娯楽本やインターネット上の記述で、本文中の「蜃」を妖怪の「蜃(しん)」と関連付けるものが見られるが、ここで語られている「蜃(うむき、うむぎ)」は実体があって食用にされる貝類の「蛤(うむき、うむぎ)」、すなわち「蛤(はまぐり)」のことであって、妖怪ではない。</ref>。その[巨人の]食べた[[貝]][の[[貝殻|殻]]]は、積もり積もって岡になった。当時の人(※現代〈すなわち、奈良時代〉の我々から見て大昔の人々)は[“大量の貝が朽ちている”意をもって、この岡を]「大朽(おおくち)」と呼んだが、[それが[[転訛|訛って]]]今は「大櫛之岡(おおくしのおか)」という(※比定地は{{ruby|[[大串貝塚]]|おおぐし かいづか}}。その所在地は、現在の茨城県[[水戸市]]塩崎町1064。その[巨人の]食べた貝[の殻]は、積もり積もって岡になった。当時の人(※現代〈すなわち、奈良時代〉の我々から見て大昔の人々)は[“大量の貝が朽ちている”意をもって、この岡を]「大朽(おおくち)」と呼んだが、[それが訛って]今は「大櫛之岡(おおくしのおか)」という(※比定地は大串貝塚(おおぐし かいづか)。その所在地は、現在の茨城県水戸市塩崎町1064-1<ref group="*">水戸市塩崎町1064-1({{googlemap|水戸市塩崎町1064-1}}</ref>、かつての[[東茨城郡]][[常澄村]]塩崎{{r|Kb_大串貝塚}}、かつての東茨城郡常澄村塩崎大串貝塚<ref group="*">[[江戸時代]]における[[常陸国]][[茨城郡]]塩ヶ崎村、[[幕藩体制]]下の[[常陸国|常州]][[水戸藩]][[地方知行|知行]]等塩ヶ崎村。江戸時代における常陸国茨城郡塩ヶ崎村、幕藩体制下の常州水戸藩知行等塩ヶ崎村。</ref>)。その[巨人の]足跡は、おおよそ、長さ40[[歩 (尺貫法)|歩]]あまり、幅20[[歩 (尺貫法)|歩]]あまりで、[[尿]]の穴(※[[排尿#立ち小便|立ち小便]]によって穿たれた穴)は直径20[[歩 (尺貫法)|歩]]あまりであった。)。その[巨人の]足跡は、おおよそ、長さ40歩あまり、幅20歩あまりで、尿の穴(※立ち小便によって穿たれた穴)は直径20歩あまりであった。</blockquote>
{{Anchors|大櫛之岡_史上評価}}

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