燃える鳥

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死と再生を繰り返し、死ぬ際に燃え上がる鳥

ベンヌ

ベンヌBennu)、ベヌウベヌとは、エジプト神話に伝わる不死の霊鳥。

エジプト語の「立ち上がる者(ウェベン)」が由来とされる。「鮮やかに舞い上がり、そして光り輝く者」、「ラーの魂」、「自ら生まれた者」または、「記念祭の主」などの肩書きを持つ。

主に長い嘴をした黄金色に輝く青鷺で、他に爪長鶺鴒(つめながせきれい)、赤と金の羽がある鷲とも言う。稀なケースでは、鷺の頭をした人間の姿で表された。

太陽信仰と関連付けられたイシェドの木(ギリシアでは、ペルセア)にとまる聖鳥アトゥム、ラー、オシリスの魂であるとも考えられている。

アトゥムあるいは、ラーは、この世の始めに混沌または、原初の海ヌンからベンヌの姿で(自生的に)誕生し、原初の丘「タァ・セネン」もしくは、「ベンベン」の上に舞い降りたという。あるいは、原初の海に沈んでいた太陽(の卵)が原初の丘に揚がった時にベンヌが太陽を抱いて暖めて孵化させたともされる。なお、この原初の丘を神格化したものがタテネンである。この世の最初に誕生した鳥である事からベンヌの鳴き声により、この世の時間が開始されたともされる。

太陽と同じように毎朝生まれ夕暮れと共に死んで次の朝に再び生き返るとされた。生と死を繰り返すことからオシリスとも関連付けられた。

ホルス及びギリシアのフェニックスのモデルとも言われる。

羿と太陽

羿(げい、イ)は、中国神話に登場する人物。后羿(こうげい、ホウイー)、夷羿(いげい)とも呼ばれる。弓の名手として活躍したが、妻の嫦娥(姮娥とも書かれる)に裏切られ、最後は弟子の逢蒙によって殺される、悲劇的な英雄である。

羿の伝説は、『楚辞[1]』天問篇の注などに説かれている太陽を射落とした話(射日神話、大羿射日)が知られるほか、その後の時代の活躍を伝える話(夏の時代の羿の項)も存在している。名称が同じであるため、前者を「大羿」、後者を「夷羿」や「有窮の后羿」と称し分けることもある。その大羿は中国神話最大の英雄の一人である。

太陽を射る羿

天帝である帝夋(嚳ないし舜と同じとされる)には羲和という妻がおり、その間に太陽となる10人の息子(火烏)を産んだ。この10の太陽は交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負っていた[2]。ところが帝堯の時代に、10の太陽がいっぺんに現れるようになった。地上は灼熱地獄のような有様となり、作物も全て枯れてしまった。このことに困惑した帝堯に対して、天帝である帝夋はその解決の助けとなるよう天から神の一人である羿をその妻の嫦娥と共に、地上につかわした。帝夋は羿に紅色の弓(彤弓)と白羽の矢を与えた[3]。羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたが効果がなかった。そこで仕方なく、1つを残して9の太陽を射落とした。これにより地上は再び元の平穏を取り戻したとされる[4]

羿の冒険

その後も羿は、各地で人々の生活をおびやかしていた数多くの悪獣(窫窳・鑿歯・九嬰・大風・修蛇・封豨)を退治し、人々にその偉業を称えられた[5]

  • 窫窳(あつゆ):中原:竜頭、虎爪、牛身、馬脚の猛獣
  • 鑿歯(きくし):寿華の野(南方の沼沢地):獣頭人身の怪物か。口にはノミのような形をした長さ五,六尺の牙が一本生えている。
  • 九嬰:凶水[6]:おそらく頭が九つある水火の怪で、水を吹き出すことも、火を吐き出すこともできた。
→帰路、北方の寒禄山が崩壊し、土砂の中から精美な玉の弓懸(ゆがけ)を見付けた。
  • 大風(たいふう):青丘の沢:大鳳。大きな孔雀。性格が凶暴かつ慓悍で、人畜を傷つけた。その羽根を羽ばたかせるとかならず強風が生じたので、風の象徴とされた。
  • 修蛇:洞庭湖[7]:巴蛇、体が黒く、頭が青く、大きな象をまるごと呑み込み、三年かかって消化してからその骨を吐き出す。人がその骨を食べると心痛や腹痛が治るとされた。
  • 封豨(ほうき):桑林:大きな猪。長い鋭い爪を持ち、牛より力のある怪獣。家畜や人をも食べた。

不老不死の薬

自らの子(太陽たち)を殺された帝夋は羿を疎ましく思うようになり、羿と妻の嫦娥(じょうが)を神籍から外したため、彼らは不老不死ではなくなってしまった。羿は崑崙山の西に住む西王母を訪ね、不老不死の薬を2人分もらって帰るが、嫦娥は薬を独り占めにして飲んでしまう。嫦娥は羿を置いて逃げるが、天に行くことを躊躇して月(広寒宮)へしばらく身をひそめることにする。しかし、羿を裏切ったむくいで体はヒキガエルになってしまい、そのまま月で過ごすことになった[8][9]

なお、羿があまりに哀れだと思ったのか、「満月の晩に月に団子を捧げて嫦娥の名を三度呼んだ。そうすると嫦娥が戻ってきて再び夫婦として暮らすようになった」という話が付け加えられることもある。

逢蒙殺羿

その後、羿は狩りなどをして過ごしていたが、家僕の逢蒙(ほうもう)という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技を全て吸収した後、「羿を殺してしまえば私が天下一の名人だ」と思うようになり、ついに羿を撲殺してしまった。このことから、身内に裏切られることを「羿を殺すものは逢蒙」(逢蒙殺羿[10])と言うようになった[11]

夷羿(夏の羿)

別に伝えられているのは、『路史』夷羿伝や『春秋左氏伝』などにあるもので王朝を一時的に滅ぼしたという伝説である。こちらの伝説ではおもに后羿(こうげい)という呼称が用いられている[12]。堯と夏それぞれの時代を背景にもつ2つの伝説にどういった関わりがあるのかは解明されていない部分がある[13]白川静は、後者の伝説は羿を奉ずる部族が、夏王朝から領土を奪ったことを示しているとしている。

后羿は子供の頃に親とともに山へ薬草を採取に出かけたが山中ではぐれてしまい、楚狐父(そこほ)(『帝王世紀』では吉甫)という狩人によって保護される。楚孤父が病死するまで育てられ、その間に弓の使い方を習熟した。その後、弓の名手であった呉賀(ごが)からも技術を学び取り、その弓の腕をつかって羿は勢力を拡大していったとされる。 太康(夏の第3代帝)の治世、太康は政治を省みずに狩猟に熱中していた。羿は、武羅・伯因・熊髠・尨圉などといった者と一緒に、夏に対して反乱を起こし、太康を放逐して夏王朝の領土を奪った。羿は王として立ち、諸侯を支配下に置くこととなる。しかしその後の羿は、伯封を殺し、その母である玄妻を娶り[14][15]テンプレート:読み仮名という奸臣を重用し、武羅などの忠臣をしりぞけ、政治を省みずに狩猟に熱中するようになり、最後は玄妻と寒浞によって相王の8年に殺されてしまった。

夷羿の妻

 羿は放浪中、非常に美しい洛水[16]の女神である雒嬪(らくひん)と出会う。雒嬪は水神の河伯の妻であった。河伯は怒りを抑えることができず、白龍に化して川面を巡遊した。そのため、大きな洪水が起き、川は氾濫して多くの人々が亡くなった。羿は白龍に変身した河伯に矢を射て、左目に命中させた。河伯は天帝に訴え出たが、羿に咎めはなかった。

『楚辞』「天問」には「帝、夷羿を降して、孽(わざわい)を夏の民に革(あらた)め、胡(なん)ぞ夫(か)の河伯を射て、彼(か)の雒嬪を妻とせる(天帝は、夷羿を地上に下して、夏の民に災いをもたらしたのに、何故河伯を射させて、その妻の雒嬪を夷羿に与えたのだろうか。)」とある。

古代中国の戦国時代(紀元前475~221年)には、「河伯が妻を娶る」と称して、毎年、若い娘を川に流して人身御供とする習慣があった。

アペプ

夜の象徴たる大蛇アペプ(右)とアトゥム=ラーの象徴たる未去勢の雄猫(左)。両者は毎晩戦っているとされた。(インヘルカウの墓壁画、紀元前12世紀)

アペプApep)は、エジプト神話における悪の化身。古代エジプト語での名は他に、アーペプアアペプAapep)、アペピApepi)、アピペApipe)、アポペApope)などが挙げられる。古代エジプト語のヒエログリフは、母音を明確に記述しないため本来の発音は、はっきりしない。古典ギリシア語転記であるアポピスΑποφις, Apophis)でもよく知られる。

概要

闇と混沌を象徴し、その姿は、主に大蛇として描かれる。蛇は、古代エジプト人にとって身近で畏怖される存在であった。太陽の運行を邪魔するのでラーの最大の敵とされる。

アポピスは、世界が誕生する前のヌンに象徴される原始の水の中から生まれた。世界の秩序が定まる前に生まれたので秩序を破壊しようとすると考えられた。あるいは、もとは、太陽神としての役割を担っていたが、それをラーに奪われたため彼を非常に憎み、敵対するようになった。ここからラーの乗る太陽の船の運航を邪魔し、日食を起こすと考えられた。

冥界に捕えられており、ここを死者の魂が通ると襲う。死者の書 (古代エジプト)は、アポピスから身を守る方法が描かれているとされた。またラーの乗る太陽の船が通過する時、セトが船を守りアポピスを打ち倒すため天敵といわれている。しかし時代が下ると、その邪悪さのためにセトと同一視された。

エスナではラーとアポピスはネイト[17]から生まれ、ラーは正常な形で生まれたが、アポピスは口から吐き出された、とされる。アポピスは道をふさいで朝、日が昇るのを邪魔する[18]

参考文献


  • Wikipedia:三足烏
  • Wikipedia:八咫烏
  • Wikipedia:羿
  • Wikipedia:アペプ
  • 『中国の神話伝説』上、袁珂 著、鈴木博 訳、青土社、1993年

関連項目

関連リンク

参照

  1. 2世紀に完成
  2. 袁珂著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 289-296頁
  3. 『山海経(前4世紀 - 3世紀頃)』広注 巻十八「帝夋賜羿彤弓素矰」郭璞云:「彤弓、朱弓。矰、矢名、以白羽羽之。外伝:『白羽之矰、望之如荼』也」
  4. 松村武雄 編 『中国神話伝説集』 社会思想社<現代教養文庫> 1976年 15頁
  5. 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 298-302頁
  6. 中国北方にあるとされた川
  7. 湖南省北東部にある淡水湖。中国の淡水湖としては鄱陽湖に次いで2番目に大きい。
  8. 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 314-320頁
  9. 松村武雄 編 『中国神話伝説集』 社会思想社<現代教養文庫> 1976年 17頁
  10. 『孟子』に「逢蒙殺羿、羿也有過」という文がある。
  11. 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 322-325頁
  12. 市村瓚次郎 『東洋史統』1巻 冨山房 1940年 50頁
  13. 内藤虎次郎 『支那上古史』 弘文堂書籍 1944年 66-67頁
  14. 春秋左氏伝昭公二十八年「昔有仍氏生女、黰黒而甚美、光可以鑑。名曰玄妻。楽正后夔取之、生伯封。実有豕心、貪惏無饜、忿纇無期、謂之封豕。有窮后羿滅之、夔是以不祀」
  15. 楚辞』天問「浞娶純狐、眩妻爰謀、何羿之射革、而交呑揆之」
  16. 河南省西部を流れる黄河の支流
  17. エスナの守護神。クヌムの妻とされていたと思われる。ネイトそのものは紀元前3100年頃より信仰された。プロクロス(412年-485年)は、サイスの現存しないネイトの神殿の至聖所に次の碑文が刻まれていたと記している。「私はかつてあり、今もあり、これからもある全てである。そして私のヴェールを人間が引き上げたことはない。私がもたらした果実は太陽である。(trans. Thomas Taylor, Proclus , The Commentaries of Proclus on the Timaeus of Plato, in Five Books, A.J. Valpy, year;1820, page = 82, url = http://books.google.com/books?&pg=PA82&id=Qh9dAAAAMAAJ&ots=0h_azc_OV5#PPA82  )」。ヘロドトスによれば「ランプ祭」(Feast of Lamps)と呼ばれる大きな祭りが毎年開催され、戸外に一晩中多数の明かりを灯したという。
  18. 世界神話大辞典、イヴ・ボンヌフォア著、金光仁三郎訳、大修館書店、110p