三足烏

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図1,「双鳥朝陽」。太陽に向かう2羽の鳥が描かれた象牙の容器。紀元前5000年頃-紀元前4500年頃(浙江省博物館)
この図案は、太陽には三本足のカラスがいるといった伝説からの「金烏負日」という古代思想を表現している。古人は太陽の日の出、日没は二羽のカラスが運ぶのだと考えた[1]

三足烏(さんそくう、さんぞくう)は東アジア地域の神話や絵画などに見られる伝説の生き物である。この烏は太陽に棲んでいると信じられ、太陽の象徴であった[2][3]。最も古い考古学的遺品は紀元前5000年の中国揚子江下流域の河姆渡文化にさかのぼる(図1)。古代中国には「金烏負日」という思想があり、太陽の日の出、日没は二羽のカラスが運ぶのだと考えていた。

三足烏の意味

古代中国の文化圏で広まっていた陰陽五行説では偶数を陰、奇数を陽とする。このため3足は陽となり太陽と繋がりができるからだと言われている。

中国

三足烏(さんそくう、さんぞくう、sānzúwū、サンズゥウー)は、中国神話に登場する烏で、太陽に棲むとされ[4](ただし他の神話もある)、太陽を象徴する。黒い烏は太陽の黒点を表しているという説もある。日烏(にちう、rìwū、リーウー)や火烏とも言い、月のと対比される。しばしば3本の足をもつとされるが2本の場合もある。また金色という説もあり、金烏(きんう、jīnwū、ジンウー)とも呼ばれる[私注 1]

太陽にいるのは烏ではなく金(きんけい)であるとの神話もある。別の神話では、太陽は火烏の背に乗って天空を移動する。ただしこれに対し、竜が駆る車に乗っているという神話もある。

なお三足烏の「金烏」の絵は、日本の1712年(正徳2年)刊の「和漢三才図会」の天の部の「日」の項にも認められる[5]

『淮南子』に「昔、広々とした東海のほとりに扶桑の神樹があり、10羽の三足烏が住んでいた……」と見える。この10羽の3本足の烏が順番に空に上がり、口から火を吐き出すと太陽になるという。『淮南子』の巻七(精神訓)では、月日説話に「日中有踆烏 而月中有蟾蜍」の記述もあり、太陽と鳥の関連を示している。後の『春秋元命苞』に「陽数起於一、成於三、日中有踆烏」がみえ、太陽の中に鳥がいるという話は古いが三本足を有することについては後のことではないかとされる[私注 2]

このような物語もある。大昔には10の太陽が存在し、入れ替わり昇っていた。しかし尭帝の御世に、10の太陽が全て同時に現れるという珍事が起こり、地上が灼熱となり草木が枯れ始めたため、尭帝は弓の名手羿に命じて、9つの太陽に住む9羽の烏を射落とさせた。これ以降、太陽は現在のように1つになった(『楚辞』天問王逸注など)。

朝鮮

三足烏(삼족오 Samjogo サムジョゴ)は、高句麗(紀元前5世紀~7世紀)では火烏とも言われた。古墳壁画にも3本足の烏三足烏が描かれている。月に棲むとされた亀と対比された。

日本

日本では八咫烏(ヤタガラス)と呼ばれ、古事記の神武東征において神武天皇を導く役割をしている。

その他

三足烏はエジプト神話の壁画に見られる[3]。これはリュキアパンフィリア三脚巴から考え出されたとされる[2]

参考文献

  • Wikipedia:三足烏(最終閲覧日:22-10-20)
    • 『世界の神話伝説総解説 増補新版』自由国民社 収載 伊藤清司「中国の神話伝説」

関連項目

私的考察

  1. 河姆渡文化では「金烏」は地平線からの太陽の出入りを手伝う役目であったと思われるので、太陽に住んでいたとは思えない。『淮南子』が編纂された時点で「金烏=太陽」となるような思想の変換が既に行われていたことが示唆される。太陽が出入りする「境界」の神であるので、三足烏には「境界神」としての性質がある。
  2. この点でも、『淮南子』が編纂された時点で「金烏=太陽」とみなされる思想の変換が行われていたことが分かる。金烏は地平線を守る境界神から、新たに太陽と習合してその地位を高めた、といえる。

参照

  1. 河姆渡(上)7000年前の稲作文化、文:丘桓興、人民中国インターネット版、10-04-27(最終閲覧日:22-09-16)
  2. 2.0 2.1 The Animal in Far Eastern Art and Especially in the Art of the Japanese, Volker, T., Brill, 1975, page39
  3. 3.0 3.1 Chosun.com.
  4. 『淮南子』精神訓「日中有踆烏」
  5. 寺島良安『倭漢三才圖會』(復刻版)吉川弘文館、1906年(明治39年),3頁