当麻蹴速

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当麻蹴速(たいまのけはや、たぎまのけはや、タエマクエハヤ、當麻蹶速、生年不明 - 垂仁天皇7年7月7日)は、垂仁天皇の時代に勇名をはせたと伝わる人物である。

解説[編集]

『日本書紀』によれば、蹴速は大和国の当麻邑(たいまのむら、現奈良県葛城市當麻)に住み、強力を誇って生死を問わない勝負をする者を欲していたため、これを聞いた垂仁天皇が出雲国から勇士であると評判の野見宿禰を召し寄せ、捔力(すまひ)で対戦させたところ、互いに蹴り合った後に、蹴速は宿禰に腰を踏み折られて死んだといい、蹴速の土地は没収されて勝者の野見宿禰の土地となったという[1]

蹴速」という名前は、蹴り技の名手であったことを示すために名付けられたと推測されている[2]。また、葛城市當麻には蹴速の塚と伝わる当麻蹴速塚がある。また、同地の當麻山口神社・一の鳥居北側付近は、蹴早の屋敷跡と伝えられている。

後世、野見宿禰と共に相撲の神とされ、両者が相撲を取った地であると伝える奈良県桜井市の穴師坐兵主神社の摂社、相撲神社に野見宿禰とともに祀られている。

私的考察[編集]

「当麻氏」には2種類の系統があると考える。

  • 当麻物部(邇芸速日命降臨の際に従ったとされる部民の一つ(『先代旧事本紀』)。):当麻蹴速の属した物部氏系の氏族。
  • 日子坐王あるいは麻呂子皇子を祖とする葛木氏系の氏族:野見宿禰、当麻勾君など。当麻山口神社に関連する。

当麻蹴速と野見宿禰の伝承は、物部氏系の氏族から葛木氏系の氏族へと当麻邑の支配者が変更されたことを投影する伝承ではないだろうか。そして、それが「相撲」で現されている、ということは、相撲とは神に奉納するものでもあるので、支配者の交替が「神意に沿うものである」という意味も含むように思う。実際に故事に基づく事件があったかどうかは不明といえる。

当麻蹴速と野見宿禰の格闘は旧約聖書における「天使と格闘するヤコブ」を思わせる。

また「蹴速」という名には「」という言葉があり、犬神・風神を思わせる。当麻蹴速とは邇芸速日命の別名であって「負けた神」として分けたものではないだろうか。

参考資料[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

脚註[編集]

[[category:ローマ教]

  1. 『日本紀』垂仁天皇7年7月乙亥(7日)条。ちなみに後世の7月7日の相撲節会はこの日に因むという(『類聚国史』歳時部相撲条)。
  2. なお、『古事記』開化天皇の段に、皇孫である小俣王(こまたのみこ)の後裔として「当麻勾君(たいまのまがりのきみ)」という氏族が見えるが、蹴速との関係は不明である。