図4の巨人を[[盤古]]型の巨人とすれば、[[盤古]]が亡くなった後に、その体から山に化生した部分もある、とされている。よって、図1,2の「山」は[[盤古]]の体の一部が変化したものなのである。そして、図1,2と図4を見比べた場合、図4の方が増えている紋様があることが分かる。いわゆる「雲」と呼ばれている部分である。
管理人は、これを「'''雲'''」でもあるし、「'''鳥'''」でもあるし、「'''角'''」でもあると考える。また「'''月'''」とも見なせる。大汶口文化が」とも見なせる場合もあるかもしれないと思う。これらはともかく、[[盤古]]の「首」から発生したもので、そのため[[盤古]]の体である「山」よりも高い位置にあるのではないだろうか。 大汶口文化が[[河姆渡文化]]の「太陽を運ぶ[[三足烏]](金烏)」の思想を受け継いでいれば、大汶口文化の住人は、これを引き続き「[[三足烏]]」と考えていたことと思う。[[盤古]]型巨人の一部は、死して樹木に化生した、とも言われており、それを[[扶桑]]のような「巨大樹」とすれば、[[三足烏]]はその頂点に留まっている鳥であるし、また太陽を背に乗せて飛ぶ鳥として現されることもあるので、巨人と太陽の間に存在する神霊としては「[[三足烏]]」が一番適すように思うのである。
しかし、これはまた「雲」でも良いのではないか、と思う。古来より三足烏が仕えている西王母は織物に関連づけられていることが多い。おそらく、古代のいずれかの時期、いずれかの地域で、「'''雲は西王母の織物である'''」という考えがあったのではないか、と思う。雲は太陽の下に拡がり、雨や雷をもたらすが、太陽はまたその合間から顔を出す。西王母の原型が太陽女神であったならば、天候を支配する西王母は、その織物を雲となして、天候を操っていたかもしれないと思う。そして、その場合雲は、[[三足烏]]を兼ねていたとしても不思議ではないと考える。三足烏は人々と太陽である原西王母との間にあって、人々に神の使いとして雨水をもたらしてくれる存在でもあったのではないだろうか。天から鳥神が舞い降りてきて、人々に様々なものを授けてくれる、という伝承は各地にある。