また、北斗七星は柄杓の形をしていることから、瓢箪(の柄杓)の神である[[伏羲]]と関連づけられ、農業の豊穣をもたらす、とも考えられていた。更埴条里遺跡・屋代遺跡群からはヒョウタンで作った杓が発見された、とのことで、金刺氏は農業の豊穣を願うために北斗七星(伏羲)に対する祭祀を行っていた可能性があるように思う。また北斗七星は道教で天皇大帝とも呼ばれ、中国の皇帝や日本の天皇は北斗七星の化身として、国家に豊穣をもたらす王権者を称していたようである。
堂童子の祭祀は白い麻の衣をまとって行われ、麻の神の化身(植物神の化身)であると共に、白で現される星神の化身を思わせる。秘儀であって人目に触れることのない点は「隠れた星(黒星)」を思わせる<ref group="私注">星に白と黒の2種類がある、という思想は相撲における「白星」「黒星」という言葉に残っているように思う。</ref>。善光寺の延べる「御年神」とは「彦神別神」のことであり、北斗七星のことではないだろうか。北斗七星こそが翌年の天下泰平や五穀豊穣をもたらしてくれるし、年に1度、そのために地上に降り立ってくれる、と考えられていたのかもしれない。文明が発達してきたので、更埴条里遺跡・屋代遺跡群の時代に比べて、織物の材料となる麻も重要な植物と考えられるようになったのではないだろうか。そして、地上に降り立った「彦神別神」が「白星」であるとするならば、彼の乗る「黒馬」は「黒星」の化身といえるのではないか。。善光寺の延べる「御年神」とは「彦神別神」のことであり、北斗七星のことではないだろうか<ref group="私注">善光寺には「七」という数字にまつわる施設が複数存在する。</ref>。北斗七星こそが翌年の天下泰平や五穀豊穣をもたらしてくれるし、年に1度、そのために地上に降り立ってくれる、と考えられていたのかもしれない。文明が発達してきたので、更埴条里遺跡・屋代遺跡群の時代に比べて、織物の材料となる麻も重要な植物と考えられるようになったのではないだろうか。そして、地上に降り立った「彦神別神」が「白星」であるとするならば、彼の乗る「黒馬」は「黒星」の化身といえるのではないか。
一方、「彦神別神」と共に祀られている[[大宜都比売]]は、金星(太白)のことを指すのではないか、と思う。中国では金星に相当するのは[[九天玄女]]という女神なのだが、「黒」に象徴される女神で、黄帝の守護神であり軍神でもある。特に天下太平を彼女に求めても不思議ではない。また、[[大宜都比売]]は「蚕の女神」としても盛んに信仰されていたとのことなので、[[馬頭娘]]の故事の通り、「蚕(馬頭の虫)の母」である馬の女神としての意もあったかもしれない、と思う。[[九天玄女]]も絹の豊穣に関する[[織女]]も[[西王母]]信仰に関連し、[[西王母]]の化身といえるので、[[大宜都比売]]は[[西王母]]と[[九天玄女]]の化身であって、かつ「'''豊穣のための人身御供として殺される女神([[織女]]あるいは[[馬頭娘]])'''」として祀られていたと考える。善光寺の御年神の中には聖徳太子も含まれ、上宮王家の非業の最期を考えれば、善光寺には「非業の死を迎えた人」を祀る側面があるように思う。日本的な仏教には「死者を供養する」という性質が強いのでこれは特に異なこととはいえない。そして、神式でいえば御霊信仰といえると思うので、善光寺の古い性質としては、御霊信仰と死者の供養が組み合わされ、その象徴ともいえる彦神別神と[[大宜都比売]]を「御年神」として、天下太平・五穀豊穣を願う場だった、といえるのではないだろうか。特に麻(彦神別神)、絹([[大宜都比売]])、馬(黒駒)の豊穣が強調されて、「奥の院」と越年祭の神話は作られているのではないか、と思われる。その3つが善光寺が成立した時代、古墳時代から奈良時代にかけて善光寺平や信濃国で重要な産業であったからだと考える。
つまり、堂童子の祭祀は、更埴条里遺跡・屋代遺跡群の北斗七星信仰を受け継ぐものであると同時に'''[[大宜都比売]]とその子神の彦神別神'''、要は'''[[塗山氏女]]([[嫦娥]])とその子の[[啓]]'''に対する祭祀であって、祭祀者である若麻績氏は金刺氏の同族と思われ、金刺氏は自分達のことを更埴条里遺跡・屋代遺跡群の時代から、高陽氏・高辛氏の子孫と考えていた渡来系の人々であるし、朝鮮半島の国家に出仕者を出せる、という点は、それなりの家柄の氏族であると、当時の朝鮮の人々にも考えられていたからではないのか、というのが管理人の考えである。[[大宜都比売]]は諏訪信仰的にいえば八坂刀売と同一の女神であるといえるかもしれない。八坂刀売は「殺される女神」ではないが、「蚕の母」としている神社もごく一部にはある。ただ、善光寺では記紀神話にも採用された公式な「蚕の母」である[[大宜都比売]]の方を蚕神として採用したのであろう。 そして、ということは、[[啓]]、[[須佐之男命]]、彦神別神などは一群の「北斗七星」と考えられる神々である、と管理人は考える。
=== 平安時代以降 ===
== 関連遺跡 ==
=== 管理人が関連があると推察している遺跡 ===
* '''更埴条里遺跡・屋代遺跡群'''(長野県千曲市):弥生時代の水田や水路が確認されている<ref>[https://naganomaibun.or.jp/archives/category/%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E6%83%85%E5%A0%B1/%E5%8C%97%E4%BF%A1/%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%80%80 柳沢遺跡]、長野県埋蔵文化センター</ref>。[[ヒョウタン]]で作った杓が発見され、祭祀で使用されていた形跡があるのではないか。[[ヒョウタン]]で作られた杓は北斗七星とも関連づけられ、大地を潤す農耕の神のシンボルでもあった。また、この思想は西王母信仰あるいは伏羲信仰と関連しており、渡来系氏族と思われる金刺氏の文化としても矛盾しないように感じる。千曲市には須須岐水神社や森将軍塚古墳があり、古来より金刺氏の重要な拠点の一つである。で作られた杓は北斗七星とも関連づけられ、大地を潤す農耕の神のシンボルでもあった。また、この思想は[[西王母]]信仰あるいは[[伏羲]]信仰と関連しており、渡来系氏族と思われる金刺氏の文化としても矛盾しないように感じる。千曲市には須須岐水神社や森将軍塚古墳があり、古来より金刺氏の重要な拠点の一つである。
* '''浅川端遺跡'''(長野県長野市):弥生中期~後期にかけても含まれる。遺跡内の竪穴住居跡からは、'''馬形帯鉤'''(うまがたたいこう)が出土した。高さ6・7センチ、幅9・2センチ、重さ40グラム。帯鉤は、中国や朝鮮半島で使われたベルトを留めるための金具(バックル)で、日本では古墳から見つかった例はあるが、住居跡ではないという<ref>[http://weekly-nagano.main.jp/2019/10/227.html 檀田の若月神社 ~境内に平安時代の庚申塔]、週刊長野記事アーカイブ、最終閲覧日:22-11-10</ref>。<br />
* '''墨坂神社'''(すみさかじんじゃ)
*:長野県須坂市に鎮座する神社。生島足島神社と共に畿内と信濃国にのみ見える。論社が二社存在する。
* '''当信神社'''(たぎしなじんじゃ)
*:長野県長野市信州新町に鎮座する神社。式内社。主祭神は大年神・健御名方命。社殿によると『嵯峨天皇の弘仁元年、地頭の仁科氏が社殿を再興。当時は、北へ200mほどの塚田の塚の上の小祠で大年神・健御名方命を祀っていたため大年塚と呼ばれていた。』とのこと<ref>[https://genbu.net/data/sinano/tagisina_title.htm 当信神社]、玄松子(最終閲覧日:22-11-15)</ref>。「たぎしな」の言葉は手研耳命<ref>[[神八井耳命]]の兄。謀反を起こし[[神八井耳命]]、綏靖天皇らに倒された、と言われる。</ref>に由来するのではないか、という説がある。
=== 関連寺院 ===
* '''川柳将軍塚古墳'''
*:長野県長野市にある前方後円墳で、長野盆地(通称:善光寺平)の中でも最古級にあたる4世紀前期の築造とされる。発見当時は多数の銅鏡や玉類、埴輪が発見されている。
* '''南向塚古墳'''
*:長野県長野市にある前方後円墳で、長野盆地(通称:善光寺平)の中でも最古級にあたる4世紀前期の築造とされる。発見当時は多数の銅鏡や玉類、埴輪が発見されている。長野盆地において、平野部に築かれた本古墳は貴重かつ特異な存在である。6世紀前半の築造と思われ、現在明確な出土品は瑠璃製勾玉1点のみである。2017年現在、付近の芋井神社が所有しているとのこと。上杉謙信にまつわる伝承もあるようだが、地元には由来として『孝元天皇の皇子、少名日子建猪心が水内に勅命で下向し開墾を進めたがこの地に斃れ、住民によって葬り、三面観音像を祀ったものである。故に王塚という。』という伝承があるとのこと。「少名日子建猪心」とは「少名日子建猪命」と書けると思うので、記紀神話の'''少名毘古那'''と'''武五百建命'''を合成したような神名であると思う。もしかしたら「少名日子」には「若い」とか「小さい」という意味があり、葬られているのは「若い[[武五百建命]]([[武五百建命]]の子神)」ということなのかもしれないと思う。古墳のある高田は尾張神社のある尾張部にも近く、いずれも水害の多かった長野盆地では古来より微高地で水害の起きない貴重な一等地であった。<br />芋井神社はかつて元諏訪社と呼ばれており、祭神は南方止売命、配祀に南方刀美命とある。これは八坂刀売と建御名方富命のことであろう。南方止売命(女神)の方が主祭神である点は、「母神」としての女神が被葬者(少名日子建猪命(子神))を守護する、という思想が強く出ていると管理人は感じる。記紀神話では[[武五百建命]]は[[神八井耳命]]の末裔とされているが、水内郡には特に諏訪大社との権威と結び付ける形で[[武五百建命]]は建御名方富命の子神である、という伝承がかつてあったのかもしれないと思う。その場合、'''[[武五百建命]]は彦神別神と「同一のもの」'''となり、善光寺の「奥の院」あるいはかつての年神堂に祀られていた彦神別神とは[[武五百建命]]のことである、といえる。記紀神話が編纂され、神話・伝承が整理されるにつれて、全国区的な祖神として[[武五百建命]]と[[神八井耳命]]、地方的な諏訪信仰と連動した祖神として彦神別神と建御名方富命の2大伝承が残されていったものと考える。
* '''森将軍塚古墳'''
*: 長野県千曲市(旧埴科郡)にある前方後円墳で、埴科古墳群(はにしなこふんぐん)に属する。築造は長野県内の前方後円墳の中でも最古級にあたる4世紀中期とされており、初代科野国造の建五百建命の墓とする説がある<ref>[http://www.nihonjiten.com/data/263245.html 科野国造 ( 信濃 )] - 日本辞典(2018年7月6日午前4時29分([JST)閲覧)</ref>。
* [https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E6%B0%8F 今井氏]、日本通信百科事典(最終閲覧日:22-11-13)
* [https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/gongakanga.html 恒川官衙遺跡]、飯田市HP、22-0-25(最終閲覧日:22-11-14)
* [https://genbu.net/data/sinano/tagisina_title.htm 当信神社]、玄松子(最終閲覧日:22-11-15)
* [http://www.komainu.org/nagano/naganosi/imoi_takada/yuisho.html 芋井神社]、神社探訪、狛犬見聞録・注連縄の豆知識(最終閲覧日:22-11-15)
== 私的注釈 ==