* '''更埴条里遺跡・屋代遺跡群'''(長野県千曲市):弥生時代の水田や水路が確認されている<ref>[https://naganomaibun.or.jp/archives/category/%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E6%83%85%E5%A0%B1/%E5%8C%97%E4%BF%A1/%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%80%80 柳沢遺跡]、長野県埋蔵文化センター</ref>。[[ヒョウタン]]で作った杓が発見され、祭祀で使用されていた形跡があるのではないか。[[ヒョウタン]]で作られた杓は北斗七星とも関連づけられ、大地を潤す農耕の神のシンボルでもあった。また、この思想は西王母信仰あるいは伏羲信仰と関連しており、渡来系氏族と思われる金刺氏の文化としても矛盾しないように感じる。千曲市には須須岐水神社や森将軍塚古墳があり、古来より金刺氏の重要な拠点の一つである。
* '''浅川端遺跡'''(長野県長野市):弥生中期~後期にかけても含まれる。遺跡内の竪穴住居跡からは、'''馬形帯鉤'''(うまがたたいこう)が出土した。高さ6・7センチ、幅9・2センチ、重さ40グラム。帯鉤は、中国や朝鮮半島で使われたベルトを留めるための金具(バックル)で、日本では古墳から見つかった例はあるが、住居跡ではないという<ref>[http://weekly-nagano.main.jp/2019/10/227.html 檀田の若月神社 ~境内に平安時代の庚申塔]、週刊長野記事アーカイブ、最終閲覧日:22-11-10</ref>。<br />
金刺氏(多氏)の由来は、河内長野の源流とされる藤井寺市の一角で、物部目大連の土地でかつ志紀県主がおさめていた場所、ひいては奈良の磯城郡と金刺氏との関連を指摘し、魏の司空王(永辺に日)を祖とする忠意の後裔とする渡来人集団で朝鮮半島を出自とし、河川工事の技術集団であって、物部氏の配下であって信濃国に進出したのではないか、という説があるようである<ref>[http://scoophands.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post-c3bf.html 物部氏と長野氏と金刺氏と信濃]、遺跡の見方と歩き方、06-07-24(最終閲覧日:22-11-11)</ref><ref group="私注">金刺氏(多氏)、物部氏、志紀氏の間に関連性がある、という考え方は管理人も同様である。しかし、祖神として物部氏の邇芸速日よりも格上といえる神武天皇を有していること、物部氏が滅亡した後も金刺氏は信濃国を中心として栄えていたこと、聖徳太子と善光寺との近さからいってむしろ物部氏を滅ぼす方に加担していたのではないか、と思われることから物部氏の配下であったとは考えにくいと管理人は個人的に思う。現実の社会構造(地名や文化の一致)からの考察は素晴らしいと思うが、では他の多氏系の氏族との関連性はどうなのか、何故金刺氏は神武天皇の子孫とされているのか、何故物部、志紀、金刺を含むと思われる賀茂氏そのものが渡来系の氏族であることを隠しているのか、その答えが必要である。治水工事に関して金刺氏がある程度の技術力を有していたこととは思うが、古代において技術者は常に朝鮮半島から招かれていたと思うので、金刺氏そのものが技術者集団であるという点は疑問に思う。金刺氏に関連する「渡来系技術者的集団」として秦氏が果たした役割は非常に大きいと感じる。6世紀頃の渡来としてしまうと、長野県北信にある前方後円墳が作られ始めた時期よりも遅くなってしまい矛盾が生じる。しかも、魏の王の子孫が何故、治水工事の技術集団へと変貌したのか、という点にも説明が必要と思われる。</ref>
『新撰姓氏録』では、河内国皇別 尾張部は彦八井耳命の後、とあるとのことなので、長野市尾張部の尾張氏は河内国出身であることが示唆される<ref>Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%AD%90%E5%85%AB%E4%BA%95%E5%91%BD 日子八井命](最終閲覧日:22-11-12)</ref>。ただし、河内国の尾張氏のみを特別に日子八井命の後裔とする理由はないので、これは尾張氏、ひいては物部氏、海部氏等、邇芸速日あるいは天火明命の子孫とされる氏族にまで拡大するとすると、これらの氏族は全て同族である、といえることになると考える。
=== 関連神社 ===