=== 若麻績部君氏 ===
本田善光は推古天皇8年-10年(600年-602年)に信濃国司の供として大和国の京に上る。その際、難波の堀江(現在の大阪市西区北堀江にある和光寺の阿弥陀池)にて、厄落としとして打ち捨てられた尊仏を発見し、安置したい旨を朝廷に願い出て勅許を蒙り、尊仏を信濃国'''伊那郡若麻績里'''の自宅の臼の上に安置したところ、臼が燦然と光を放ったことからここを坐光寺としたとされる。皇極天皇3年(644年)、善光寺の所在地となる信濃(科野国)水内郡芋井郷に尊仏を奉り、寺院建立の勅を蒙りて伽藍を建立。本田善光の子孫が若麻績氏である、と言われている。
以下のような説もある。
善光寺に関与した若麻績部君氏は毛野氏族に出て、諏訪氏族や科野国造族とは別系である。善光寺別当初代の若麻績部君東人(いわゆる誉田善光)は水内郡誉田里の住人と伝えるが、東人からの略系は伝わっている(『善光寺史研究』に所載の「善光寺本願系図」)。この別当家は九世紀頃に毛野同族の丈部氏に男系が変わり、十二世紀中葉には清和源氏の崇徳院判官代村上為国の子息を婿に迎えて栗田氏を称し、善光寺と戸隠の両別当を世襲した。
若麻績部君氏の先祖がどのように上毛野君から分れたのかは不明であり(毛野氏族の系譜の中でどのように位置づけるのかは不明)、諏訪氏や科野国造一族との関係も不明である。ただ、上毛野君氏の実系は、崇神天皇の後裔という皇別ではなく、海神族系の三輪氏族からの分岐であるから、諏訪氏族に通じるものがあり、『善光寺縁起』によると、大和三輪出身の三輪時丸が善光寺に参詣して、そのままこの地に止まったということで、当地を三輪と称したとも伝える事情にもある<ref>[http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/suwasya1.htm 諏訪社の奉斎氏族]、[http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/index.html 古樹紀之房間]、樹堂氏(最終閲覧日:22-11-08)</ref>。
若麻績氏が三輪氏系の氏族であれば、三輪山の大物主は神武天皇の舅(外戚)とされており、綏靖天皇の子供達からは曾祖父にあたる。ここから三輪氏系の氏族と皇姓とされる金刺氏が発生しており、金刺氏と若麻績氏は血族である、といえる。若麻績東人の出身である伊那郡若麻績里、善光寺がある水内群芋井はいずれも金刺氏の拠点があった地域である。若麻績氏は金刺氏の近縁あるいは側近といえるような氏族だったのではないだろうか。そしてどちらも大物主の配偶神から賀茂系の氏族へと繋がるのである。
若麻績氏はその名の遠り、麻に関する氏族である。筑摩郡には伊勢神宮の麻績御厨が置かれ、神宮に麻を供給していた。
== 系譜 ==