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この立烏帽子について、鎌倉時代初期の承久の乱(1221年)前後に成立したとみられる『保元物語』では、伊賀国住人山田小三郎是行が、祖父・行秀が'''立烏帽子'''を捕縛して天皇に献上したと名乗りをあげている<ref group="原">半井本『保元物語』中巻「白河殿へ義朝夜討ちに寄せらるる事」</ref><ref>坂詰力治・大村達郎・関明子・池原陽斉編『半井本 保元物語 本文・校異・訓釈編』(笠間書院、2010年)</ref><ref>阿部, 2004, pages89-91</ref>。
[[御成敗式目]][[追加法]]では、[[延応]]元年7月26日(ユリウス暦[[1239年]]8月26日)付で鈴鹿山と[[大江山]]の盗賊について、近辺の地頭が責任者として鎮圧させるよう伝達されている{{refnest|御成敗式目追加法では、延応元年7月26日(ユリウス暦1239年8月26日)付で鈴鹿山と大江山の盗賊について、近辺の地頭が責任者として鎮圧させるよう伝達されている<ref group="|name=御成敗式目追加法延応元年七月廿六日付「鈴鹿山并大江山悪賊事」|">御成敗式目追加法「関東御教書」延応元年七月廿六日付「鈴鹿山并大江山悪賊事」}}</ref>
[[建長]]6年([[1254年]])成立の『[[古今著聞集]]』には、強盗を捕らえた[[検非違使]]別当[[藤原隆房]]が27、8歳の見目麗しい女官が強盗の正体であったことに驚き「昔こそ建長6年(1254年)成立の『古今著聞集』には、強盗を捕らえた検非違使別当藤原隆房が27、8歳の見目麗しい女官が強盗の正体であったことに驚き「昔こそ'''鈴香山の女盗人'''とて言ひ伝へたるに」と、かつて鈴鹿山にも女盗賊がいたことを回想する記述が見られる{{refnest|<ref group="|name=『古今著聞集』巻第十二「検非違使別当隆房家の女房強盗の事露見して禁獄の事」|">『古今著聞集』巻第十二「検非違使別当隆房家の女房強盗の事露見して禁獄の事」}}。隆房が検非違使別当であった時期は[[1183年]]から[[1191年]]であり、この『古今著聞集』とあまり時期の離れない『宝物集』や『保元物語』の盗賊立烏帽子と『古今著聞集』の鈴鹿山の女盗賊が次第に同一人物とされたことで、女盗賊としての立烏帽子へと繋がっていく。</ref>。隆房が検非違使別当であった時期は1183年から1191年であり、この『古今著聞集』とあまり時期の離れない『宝物集』や『保元物語』の盗賊立烏帽子と『古今著聞集』の鈴鹿山の女盗賊が次第に同一人物とされたことで、女盗賊としての立烏帽子へと繋がっていく。
『[[弘長元年十二月九日公卿勅使記]]』では、鈴鹿山のうち凶徒の立つところとして西山口の加治□坂を挙げて「昔立烏帽子在所辺也。件立烏帽子崇神社者、鈴鹿姫坐。路頭之北辺也」と注している<ref>『公卿勅使記』(『神道大系 神宮編3』</ref>。ここでは盗賊の名前が立烏帽子であり、鈴鹿姫はその盗賊が崇敬した社の女神として現れる。同時代に記された『古今著聞集』と違い、『弘長元年公卿勅使記』には立烏帽子を女性とした描写は残っていない{{Sfn|阿部|2004|pages=90-91}}{{Sfn|桐村|2012|pages=117-121}}。

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