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建長6年(1254年)成立の『古今著聞集』には、強盗を捕らえた検非違使別当藤原隆房が27、8歳の見目麗しい女官が強盗の正体であったことに驚き「昔こそ'''鈴香山の女盗人'''とて言ひ伝へたるに」と、かつて鈴鹿山にも女盗賊がいたことを回想する記述が見られる<ref group="原">『古今著聞集』巻第十二「検非違使別当隆房家の女房強盗の事露見して禁獄の事」</ref>。隆房が検非違使別当であった時期は1183年から1191年であり、この『古今著聞集』とあまり時期の離れない『宝物集』や『保元物語』の盗賊立烏帽子と『古今著聞集』の鈴鹿山の女盗賊が次第に同一人物とされたことで、女盗賊としての立烏帽子へと繋がっていく。
『[[弘長元年十二月九日公卿勅使記]]』では、鈴鹿山のうち凶徒の立つところとして西山口の加治□坂を挙げて「昔立烏帽子在所辺也。件立烏帽子崇神社者、鈴鹿姫坐。路頭之北辺也」と注している『弘長元年十二月九日公卿勅使記』では、鈴鹿山のうち凶徒の立つところとして西山口の加治□坂を挙げて「昔立烏帽子在所辺也。件立烏帽子崇神社者、鈴鹿姫坐。路頭之北辺也」と注している<ref>『公卿勅使記』(『神道大系 神宮編3』</ref>。ここでは盗賊の名前が立烏帽子であり、鈴鹿姫はその盗賊が崇敬した社の女神として現れる。同時代に記された『古今著聞集』と違い、『弘長元年公卿勅使記』には立烏帽子を女性とした描写は残っていない{{Sfn|<ref>阿部|, 2004|pages=90, pages90-91}}{{Sfn|</ref><ref>桐村|, 2012|pages=117, pages117-121}}</ref>
[[延文]]から[[応安]]頃に成立した『[[異制庭訓往来]]』では、本朝の強盗の張本として[[藤原保昌]]の舎弟である[[藤原保輔]]とともに鈴鹿山の立烏帽子が記されている。延文から応安頃に成立した『異制庭訓往来』では、本朝の強盗の張本として藤原保昌の舎弟である藤原保輔とともに鈴鹿山の立烏帽子が記されている。
=== 坂上田村麻呂との結びつき ===

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