'''復古神道'''
<br/>国学者の本居宣長は、天照大神は天皇の祖神であるとともに、今現在も現実にこの世界を照らしている'''太陽そのものである'''として、天照大神を上代に日本を治めた存在の比喩であるとしたり、実際の太陽ではなく、その神徳を太陽に例えているものだとする見解を「漢意]として退けた<ref name="神宮司庁、28頁">神宮司庁編『度会神道大成 後編』吉川弘文館(2008)28頁</ref>。平田篤胤の復古神道においては、宇宙の主宰神として天御中主神が挙げられ、その下で天皇が統治する顕界と、大国主神が統治する幽冥界(死後の世界)が相対するとされ、特に大国主神の幽冥界が重視されたことで、中心的神格としての天照大神は後退したが<ref name="田原嗣郎、565-594頁">田原嗣郎「『霊の真柱』以後における平田篤胤の思想について」岩波書店(1973)565-594頁</ref>、死後の安心を得るための顕界での生き方として、天照大神や天皇への忠誠が説かれ、魂や死後の世界と関係して天照大神が捉えられた<ref>桂島宣弘, 復古神道と民衆宗教, http://www.ritsumei.ac.jp/~katsura/fukko.pdf |ref=harv</ref>。
'''黒住教'''
<br/>[[教派神道]]の一つで、[[黒住宗忠]]により創始された[[黒住教]]の教学では、身分に関係なく、全ての人間は天照大神の御霊をいただいて生まれてきた天照大神の子であるとする教義が説かれ、日の出を拝むことで天照大神に感謝を捧げる「日拝」という行事が最も重要視されている<ref>{{Cite web |url=http://kurozumikyo.com/dogma |title=黒住教の教義 | 黒住教|publisher=黒住教 |accessdate=2022-08-10 }}</ref>。
== 神仏習合と天照大神の男神説 ==
中世の[[神仏習合|神仏混淆]]で[[本地垂迹]]説が広まると、[[天竺]]([[インド]])の仏が神の姿をとなり、日本に出現したとする考えが広く浸透した。はじめ天照大神には[[観音菩薩]]([[十一面観音|十一面観音菩薩]])が当てられたが、やがて[[大日如来]]となり、[[両部神道]]が登場すると天照大神は太陽の仏である大日如来と同一視されるようになる{{Sfn|中世の神仏混淆で本地垂迹説が広まると、天竺(インド)の仏が神の姿をとなり、日本に出現したとする考えが広く浸透した。はじめ天照大神には観音菩薩(十一面観音菩薩)が当てられたが、やがて大日如来となり、両部神道が登場すると天照大神は太陽の仏である大日如来と同一視されるようになる<ref>佐藤|, 2000|page=150}}{{Sfn|, page150</ref><ref>伊藤|, 2003|pages=74, pages74-73}}</ref>。
平安末期の武士の台頭や神仏混淆が強まると以前より指摘されていた天照大神の男神説が広まり、[[中世日本紀|中世神話]]などに姿を残した平安末期の武士の台頭や神仏混淆が強まると以前より指摘されていた天照大神の男神説が広まり、中世神話などに姿を残した<ref>[[上島享]]「中世王権の創出とその正統性」『日本中世社会の形成と王権』{{full|date=2018上島享「中世王権の創出とその正統性」『日本中世社会の形成と王権』(2018-05}}05)</ref><ref group="注釈">中世神話では主に男性神として、中世に編纂された『日諱貴本紀』には両性具有神として描写される。</ref>。
=== 天照大神男神説 ===
神道において、陰陽二元論が[[日本書紀]]の[[国産み]]にも語られており、伊弉諾尊を陽神神道において、陰陽二元論が日本書紀の国産みにも語られており、伊弉諾尊を陽神(をかみ)、伊弉冉尊を陰神(めかみ)と呼び、男神は陽で、女神は陰となされている。太陽は陽で、月は陰であり、太陽神である天照大神は、男神であったとされる説である。この組み合わせはギリシャ神話でも同じで、太陽神の[[アポローン|アポロ]]と月神の[[アルテミス]]は兄妹神の組合せで生まれている。と呼び、男神は陽で、女神は陰となされている。太陽は陽で、月は陰であり、太陽神である天照大神は、男神であったとされる説である<ref group="私注">管理人の考えでは、そもそも'''陰陽'''という思想そのものが、男神を神仙の世界に参画させるために作られたものである。</ref>。この組み合わせはギリシャ神話でも同じで、太陽神のアポロと月神のアルテミスは兄妹神の組合せで生まれている。
平安時代、『寛治四年十一月四日伊勢奉幣使記』で伊勢神宮に奉納する天照大神の装束一式がほとんど男性用の衣装であって、江戸時代の伊勢外宮の神官度会延経はこれを典拠にして、『左経記』の宇佐への女子用装束と比較して、「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と記している。(『内宮男体考証』『国学弁疑』)。また、『山槐記』永暦二年(1161)四月廿二日条、『兵範記』仁安四年(1169)正月廿六日条にも内宮に男子装束が奉納された記事がある。