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=== タイ ===
中国南部からベトナム・ラオスに定着したミャオ族は、19世紀末にはタイに南下してきたと考えられている<ref>Geddes, W.R. (1976) Migrants of the Mountains - The Cultural Ecology of the Blue Miao (Hmong Njua) of Thailand Clarendon Press, Oxford: p29</ref>。タイでは大まかに青ミャオ族、白ミャオ族が移住しており、言語、伝統衣装、風俗において違いがある。[[1960年]]、タイ政府のミャオ族人口統計では、青ミャオ族26。タイでは大まかに青ミャオ族、白ミャオ族が移住しており、言語、伝統衣装、風俗において違いがある。1960年、タイ政府のミャオ族人口統計では、青ミャオ族26,400人、白ミャオ族19,200人であった<ref>同書: p39</ref>。 1960年代から70年代にかけてタイは北部・北東部の反政府[[ゲリラ]]に悩まされたがこれはミャオ族を中心とする山岳少数民族が主体であった。1967年には[[チェンライ県]]でミャオ族集落が官憲に焼かれた事件を機に<ref>Tapp, Nicholas (1986) The Hmong of Thailand - Opium People of Golden Triangle, Anti-Slavery Society: p38</ref>、政府軍と少数民族との間で住民数万人の強制移住を伴う大規模な武力衝突に発展した。政府軍は反乱を鎮圧するため大砲とナパームを用いて北部諸県の山岳部ミャオ族集落に[[空爆]]を行った。一連の反乱・掃討作戦により、双方に数千人の死者を出し、大量の難民が発生した。1971年にはタイ国内五箇所([[ターク県]]、[[ナーン県]]、[[チェンライ県]]、[[ピッサヌローク県]]、[[ペッチャブーン県]])に[[難民キャンプ]]が作られた<ref>Tapp (1986): p39</ref>。こうした反乱では共産主義者が村で武器の使用方法を教え、男子をゲリラとして訓練し、村落組織を協同組合的に変えていた事などから'''赤色メオ反乱''' (Red Meo Revolt) と呼ばれている。[[ペッチャブーン県]]カオ・コー山頂の旧ゲリラ掃討の[[前線]][[基地]]跡は現在では記念公園となり、撃墜された偵察機やヘリ・装甲車の残骸が展示され当時の衝突を物語っている。
== 言語 ==
独自の言語をもち、[[ミャオ・ヤオ語族]](モン・ミェン語族ともいう)に属する。この語族に属するのは[[ミャオ語]]、[[ヤオ語]]以外には、中国東南沿海部(福建・浙江方面)に居住し、ヤオ族と文化的つながりのある[[シェ族]]の言語だけである。住む国によって[[中国語]]や[[タイ語]]などに通じている場合もある。独自の言語をもち、ミャオ・ヤオ語族(モン・ミェン語族ともいう)に属する。この語族に属するのはミャオ語、ヤオ語以外には、中国東南沿海部(福建・浙江方面)に居住し、ヤオ族と文化的つながりのあるシェ族の言語だけである。住む国によって中国語やタイ語などに通じている場合もある。
== 民族分派 ==

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