鬼神信仰の中でも、自らを「鬼神」になぞらえて、鬼神のように生きて富貴を得たい、という考え方があるように思う。例えば夏の孔甲のような存在である。「生きた鬼神」というものが現代的な「'''洗脳と詐欺'''」を行う「怨霊的生き霊」だとすると、それに倣ってそのように生きたいと思う者も後を絶たずに世の中に登場することだろう。こうして、「怨霊的生き霊」の神は、祖神としての地位から離れ、一部では「憧れの存在」ともいえるような'''凡神'''に変化したと思われる。彼を信奉し、そのおこぼれに預かろうとする者達にとっては、善神であり憧れの神だが、そうではない人々にとっては迷惑の極みで'''窃盗神'''としかみなせないと考える。この神は、鬼神の一種であり、強力な2面性を持つ神として、表されていくように思う。
特に飛騨地方や長野県で考えられるような牛蒡種、両面宿禰、魏石八面大王といった神々が、相当するように考える。特に飛騨地方や長野牛蒡種の力は[[嫉妬|妬み]]や羨望の念がもとになるといわれており、この家の者に憎まれて睨まれた者は[[頭痛]]や[[精神疾患]]を患うといい<ref name="民間信仰" />県で考えられるような牛蒡種、両面宿禰、魏石八面大王といった神々が、相当するように考える。 === 鬼神信仰と子育て ==='''種牛蒡'''の力は妬みや羨望の念がもとになるといわれており、この家の者に憎まれて睨まれた者は頭痛や精神疾患を患うという<ref name="民間信仰" />。例えば「この家の者」が子育てをする場合、子供に対して人をうらやましがったり、妬んだりするようなことを日々発言し続け、それを「当たり前の思考」「当たり前の日常会話」と思い込ませて育てたらどうなるだろうか。労せずして、生きた「'''種牛蒡'''」、生きた「怨霊的生き霊」を作り出すことができるのではないだろうか。しかも、普通に気持ちの上で、妬んだりそねんだりするだけでなく、実際に「相手は金持ちなんだからちょっとくらい持っているものを盗んだっていいや」という思考に育て、万引きを繰り返すような悪童に育てるようなこともできるかもしれない。また、呪うだけでなく、仲間で徒党を組んで、標的を取り囲み、いやがらせやいじめを繰り返せば、相手は精神的に患うこともあるだろう。このようになってくると、「'''呪い'''」とは「集団的ストーカー」とか「組織的ないじめやいやがらせ」を'''発動させるための「合い言葉」'''みたいなものである、ともいえるのではないだろうか。誰か強者が「俺はあいつを呪う」と言ったら、部下や仲間達はその標的を集団でいじめたり、いやがらせしたりしなければならないのである。それが「当たり前のこと」だと思って、そう育てられてきているのだ。 このような子育て法と、行動の理論の根源には'''「怨霊的生き霊」を敬い、従い、そのように生きなければならない、という先祖代々のしきたりとか子育て論まで含むような「鬼神信仰」がある'''のではないだろうか。
== 歴史的背景 ==