'''衣通姫'''(そとおりひめ、そとほりひめ、そとおしひめ)は、記紀にて伝承される女性。『日本書紀』では'''衣通郎姫'''(そとおしのいらつめ)、『古事記』では'''衣通郎女'''・{{ruby|'''衣通王'''(そとおりのみこ)と表記され、叔母と姪の関係にある別の人物の名である。大変に美しい女性であり、その美しさが衣を通して輝くことからこの名の由来となっており<ref name=kotobank>https://kotobank.jp/word/%E8%A1%A3%E9%80%9A%E5%A7%AB-90215, 衣通姫 そとおりひめ, コトバンク]] |accessdate=2017-03-08 }}</ref>、[[日本三大美人|本朝三美人]]の一人に数えられる。[[和歌]]に優れていたとされ、[[日本三大一覧#詩歌|和歌三神]]の一柱としても数えられる{{R|kotobank}}。
記紀の間で衣通姫の設定が異なる。
『[[古事記]]』には、[[允恭天皇]]皇女{{R|kotobank}}の{{ruby|[[軽大娘皇女|軽大郎女]]|かるのおおいらつめ}}の別名{{R|kotobank}}とし、同母兄である{{ruby|[[木梨軽皇子|軽太子]]|かるのひつぎのみこ}}と情を通じるタブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、[[伊予国|伊予]]へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中する([[衣通姫伝説]])。
『[[日本書紀]]』においては、允恭天皇の皇后[[忍坂大中姫]]の実妹・{{ruby|弟姫|おとひめ}}とされ{{R|kotobank}}、允恭天皇に寵愛された妃として描かれる。[[近江国|近江]]坂田(現在の[[滋賀県]][[米原市]])の住まいへ允恭天皇が差し向けた[[中臣烏賊津]]に対して、実姉が皇后であることを理由に入内を固辞したが、入内するまで退かないと烏賊津が7日間も庭に平伏したため、入内することとなった。しかし、実姉が皇后であるため、允恭天皇の宮とは別の宮である[[大和国|大和]]の[[藤原宮]](現在の[[奈良県]][[橿原市]])に住んだ。皇后が[[雄略天皇]]を出産した際に、允恭天皇が衣通郎姫の許に通っていたことが発覚するなど、允恭天皇と皇后の関係が悪化。衣通郎姫は藤原宮よりも允恭天皇の宮から遠く離れた地へ移ると允恭天皇へ奏言。これを受けて藤原宮に代わって造営された[[河内国|河内]]の[[茅渟宮]](ちぬのみや、現在の[[大阪府]][[泉佐野市]])へ衣通郎姫は移り住んだ{{R|kotobank}}。允恭天皇は遊猟にかこつけて衣通郎姫の許に通い続ける。皇后がこれを諌め諭すと、以後の行幸は稀になったという。
允恭天皇の宮は『古事記』には[[遠飛鳥宮]](とおつあすかのみや)へ遷都した記述があるが、『日本書紀』にはない。『日本書紀』の場合、[[反正天皇]]の宮であった河内の[[柴籬神社|丹比柴籬宮]](たじひのしばかきのみや、現在の大阪府[[松原市]])を使い続けている可能性もある。また、[[飛鳥|遠飛鳥]]については大和・河内のいずれであるか意見が分かれ、大和の場合は現在の奈良県[[高市郡]][[明日香村]]、河内の場合は現在の大阪府[[羽曳野市]]などにあたる。茅渟宮の場所はのちに河内から分割された[[和泉国|和泉]]の[[日根郡]][[上之郷 (泉佐野市)|上之郷]]に比定されており<ref>[https://www.kankou-izumisano.jp/50on/ta/inunomiya.html 茅渟宮跡(ちぬのみやあと)]泉佐野市観光ガイド(2023年10月24日閲覧)</ref>、允恭天皇の宮の場所が大和飛鳥・河内飛鳥・河内丹比のいずれであっても、允恭天皇の宮からの距離は藤原宮よりも遠くなる。
[[紀伊国|紀伊]]で信仰されていた玉津島姫と同一視され、和歌三神の一柱であるとされる。現在では[[和歌山県]][[和歌山市]]にある[[玉津島神社]]に[[稚日女尊]]、[[神功皇后]]と共に合祀されている{{R|kotobank}}。
== 外部リンク ==
* コトバンク:[https://kotobank.jp/word/%E8%A1%A3%E9%80%9A%E5%A7%AB-90215 衣通姫](最終閲覧日:26-02-05)
== 関連項目 ==
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== 脚注 ==
{{デフォルトソート:そとおりひめ}}
[[Category:日本神話]]
[[Category:吊された女神]]
[[Category:養母としての女神]]
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