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2 バイト除去 、 2026年1月14日 (水)
=== 石化伝説 ===
より後の時代にはこの女性が悲しみのあまりに石と化したと伝えられるようになった。佐用姫石化伝説の初見は室町時代、梵灯庵の 「袖下集」(応永ごろ)との考証がある<ref name=nakayama-apud-yoshioka/>。また、石化伝説のきっかけは、『十訓抄』(13世紀)にこの佐用姫伝説を紹介しており「望夫石」の故事<ref>『幽明録』</ref>も併記しているため、あやまって合成されてしたものと考察されている<ref>藪, 2006, p19</ref><ref name=ishikawa/>。時代は下るが、『日本名女物語』(寛文10/1670年)にも石化伝説がみえる(金京欄, 1998|p24–25)。佐藤, p24–25。佐藤, 1966, p37)に拠る。
また、じっさいには本土にとどまるにおさまらず、夫の舟を追って小舟で対岸の加部島(現唐津市呼子町内)にいき、天童岳で七日七晩泣きはらした末に石になってしまったとされ、その「松浦の望夫石」とされるものは、[[田島神社]]の末社である佐用姫神社に移され祀られるという<ref name=sagaken_no_chimei/>。おおよその内容を示した当社の縁起が、19世紀初頭『松浦古文書』(文化年間)にみられるが<ref name=matsura-komonjo/>、これによれば、佐用姫は領巾麾(ひれふり)の山頂からさらに移動してある場所で船を追おうとしてある島をみとがめ<ref>この島をみつけて挟出彦の名を呼んだ場所が「|呼名(よぶこ)の浦」(のちの呼子町)であると記される</ref><ref name=matsura-komonjo/><ref name=nipponica-matsurasayohime/><ref name=matsushiro/>。釣り船に乗ってその「姫神島」(現今の加部島<ref name=yoshida/><ref name=yanagita-meii/>)にいき、島の「小高き所」に上って、そこで悲しみのあまり石と化したとされる<ref name=matsura-komonjo/>。その小高い所とはすなわち天童岳(伝登岳)<ref name=yoshida/>、別名「田島嶽」であると解説される<ref name=matsushiro/>。

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