'''魏石鬼八面大王''' (ぎしき はちめんだいおう)は、[[長野県]]の[[安曇野]]に伝わる[[伝説]]上の人物。八面大王とは、魏石鬼(義死鬼)の別称である。[[南安曇郡]][[穂高町]]大字有明を中心として周辺の市町村に広く伝承されている。はちめんだいおう)は、長野県の安曇野に伝わる伝説上の人物。八面大王とは、魏石鬼(義死鬼)の別称である。南安曇郡穂高町大字有明を中心として周辺の市町村に広く伝承されている。
「'''八面大王伝説'''」は口碑として民間に伝えられる一方で、地域の寺社縁起の中にも書きとめられてきた。安曇野における[[農耕]]の原始開発にともなってこの地域に生成した鬼伝説が周辺地域に広く流布して現在の伝説に成長した。口碑や文献の多くは[[坂上田村麻呂]]が有明山の鬼賊を退治したという形を取っているが、田村麻呂の史実に基づかない伝説であることが明らかになっている。」は口碑として民間に伝えられる一方で、地域の寺社縁起の中にも書きとめられてきた。安曇野における農耕の原始開発にともなってこの地域に生成した鬼伝説が周辺地域に広く流布して現在の伝説に成長した。口碑や文献の多くは坂上田村麻呂が有明山の鬼賊を退治したという形を取っているが、田村麻呂の史実に基づかない伝説であることが明らかになっている。
== 歴史 ==
八面大王伝説は『[[仁科濫觴記]](にしならんしょうき)』に見える、田村守宮を大将とする仁科の軍による、八面大王伝説は『仁科濫觴記(にしならんしょうき)』に見える、田村守宮を大将とする仁科の軍による、'''八面鬼士大王'''を首領とする盗賊団の征伐を元に産まれた伝説であると考えられている。
現在の安曇野で伝承されている八面大王伝説は[[鬼|鬼伝説]]・[[坂上田村麻呂伝説]]・[[動物文学#変身譚・報恩譚|動物報恩譚]]の3要素から構成されており、動物報恩譚は[[明治時代]]以降に[[児童文学者]]を中心に取り上げられたため、本来の八面大王伝説にはなかった要素である。坂上田村麻呂伝説も[[江戸時代]]以降に鬼伝説に付会された要素であり、[[享保]]9年([[現在の安曇野で伝承されている八面大王伝説は鬼伝説・坂上田村麻呂伝説・動物報恩譚の3要素から構成されており、動物報恩譚は明治時代以降に児童文学者を中心に取り上げられたため、'''本来の八面大王伝説にはなかった要素'''である。坂上田村麻呂伝説も江戸時代以降に鬼伝説に付会された要素であり、享保9年('''1724年]])成立の『[[信府統記]]』が次第に八面大王伝説の初出文献、または基本文献と考えられるようになるが、もともと坂上田村麻呂伝説とは無縁な話である''')成立の『信府統記』が次第に八面大王伝説の初出文献、または基本文献と考えられるようになるが、もともと坂上田村麻呂伝説とは無縁な話である<ref>信濃史學會『信濃』第51巻(1999年)、14頁</ref>。現在は、妻の紅葉鬼神ともども[[坂上田村丸利仁|田村利仁]]によって討伐されたという『信府統記』の記述に基づく伝説が、広く[[松本盆地]]一帯に残っている。出典となった『信府統記』に読み仮名がないため、正式な読み方は不明である。。現在は、妻の紅葉鬼神ともども田村利仁によって討伐されたという『信府統記』の記述に基づく伝説が、広く松本盆地一帯に残っている。出典となった『信府統記』に読み仮名がないため、正式な読み方は不明である。
'''やめのおおきみ'''(八女大王)と読んで、[[福岡県]][[八女郡|八女]]の古代豪族[[磐井 (古代豪族)|磐井]]との繋がりも考えられている(八女大王)と読んで、福岡県八女の古代豪族磐井との繋がりも考えられている<ref>[http://ravensky.nm.land.to/wiki/wiki.cgi?page=%C8%AC%CC%CC%C2%E7%B2%A6] 八面大王 安曇野の風景と暮らし</ref>。
== 伝説の概要 ==