陶邑の名称は、崇神天皇の時、倭迹迹日百襲媛命が神懸りして受けた託宣により茅渟県の陶邑において[[大田田根子]]を探し出し、大和三輪山の神、大物主を祭る神主(三輪山の麓にある大神神社の始まりとされる。実は大田田根子は、大物主が人間の娘、生玉依媛のもとに通って産ませた隠し子であったとする)とし、それまで続いていた疫病や災害を鎮めたとする『日本書紀』の記述に基づく。この窯業生産地全体を指す呼称ではないのはもちろん、同時代にそのように呼称されていたのではない、後世つけられた呼称であるのは言うまでもない。そのため陶邑窯跡群という呼称をさけ、大阪府南部窯址群、阪南古窯址群、泉北丘陵窯跡群と呼ぶ場合もある<ref>森(1978)pp.758-778</ref>。
==陶邑窯跡群の発見から現在まで==1941年10月5日に[[森浩一]]は初めて陶邑窯跡群内の見野山窯(現 1941年10月5日に森浩一は初めて陶邑窯跡群内の見野山窯(現 高蔵寺29号窯)を訪れ、以来1964年2月16日まで分布調査を継続し、陶邑窯跡群の実態を明らかにしていった<ref>田中英夫2018 pp.35-36</ref>。
[[1960年代]]以降、[[泉北ニュータウン]]等の建設によって当地に開発の手が迫ったことで、陶邑窯跡群の全貌が次第に明らかになっていった。そのなかで多くの窯跡が盗掘、破壊されていったが、一方で400ヶ所以上もの窯跡が発掘調査され、その出土資料は全国各地で出土する、古墳時代から古代にかけての須恵器の年代を推定するための[[編年]]の基準となっている(陶邑編年)。なお、出土資料の一部は泉北ニュータウン内にある[[大阪府立泉北考古資料館]]に収蔵、展示されていたが、後進の堺市立泉北すえむら資料館が[[2016年]](平成28年)9月30日に閉館したため、泉北ニュータウン等の建設によって当地に開発の手が迫ったことで、陶邑窯跡群の全貌が次第に明らかになっていった。そのなかで多くの窯跡が盗掘、破壊されていったが、一方で400ヶ所以上もの窯跡が発掘調査され、その出土資料は全国各地で出土する、古墳時代から古代にかけての須恵器の年代を推定するための編年の基準となっている(陶邑編年)。なお、出土資料の一部は泉北ニュータウン内にある大阪府立泉北考古資料館に収蔵、展示されていたが、後進の堺市立泉北すえむら資料館が2016年(平成28年)9月30日に閉館したため<ref>堺市「[https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/oshirase/suemura_heikan.html 堺市立泉北すえむら資料館は閉館いたしました]」、2020年3月閲覧。</ref>、[[堺市博物館]]で保管されている。、堺市博物館で保管されている。
== 陶邑編年 ==