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=== 年表 ===
<!--※組み込むべき内容:過疎化・少子高齢化と担い手の減少。文化の伝承のほか、地域おこしなどにも関わる虫送り行事の復活。-->
 
==== 中国大陸 ====
中国大陸では、大規模な大雨や旱魃が起こると必ずといっていいほどトノサマバッタの群生相が発生し、大規模な農被害を与えてきた。そのため蝗害(蝗災)が天災の一つに数えられている。そして、'''天災は皇帝の不徳によるものとされてきた'''ため、各時代の王朝はこの対策に取り組み、発生した天災の記録を残した。そのためもあり、中国大陸には蝗害の記録が非常に多い。
 
古くは殷の甲骨文にも蝗害の記録が見られる<ref>彭邦炯 [http://www.cnki.com.cn/Article/CJFD1983-NOSE198302072.htm 商人卜螽説——兼説甲骨文的秋字]、1983年、農業考古、1983年第2期</ref>。また、周の詩篇『詩経』にもバッタ駆除の様子が書かれている<ref>中國哲學書電子化計劃 [http://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=15961&if=gb 詩経·小雅·大田]</ref>。漢代になると記録が増え、紀元前175年(文帝6年)<ref>漢書 文帝紀(ウィキソース中国語版)。</ref>を始めとして、漢書、後漢書には20回以上もの蝗害の記録があり、後漢の思想家王充<ref>[http://www.guoxue.com/zibu/lunheng/lh016.htm 国学网站 子部 论衡 乱龙篇第四十七]</ref>や官僚の蔡邕<ref>李純然 [http://www.xianqiao.net:8080/gb/1/6/19/n100966.htm 蝗者、在上貪苛之所致也]</ref>も自書の中で蝗害について述べている。
 
[[5世紀]]ごろから王朝の取り組みについての記録も増え、[[北史]]には[[北魏]]の[[文成帝 (北魏)|文成帝]]の時代に、官庫を開いて窮民を救済した旨の記述がある。[[唐]]代になって儒者から「'''祭礼を怠るから'''蝗害が起こるのだ」との意見が出たり(『[[新唐書]]』五行志三)、政治の要諦を説いた『[[貞観政要]]』には、[[7世紀]]の皇帝[[太宗 (唐)|太宗]]が蝗を飲み込んで蝗害を止めたという伝説が書かれている<ref>[http://guoxue.baidu.com/page/d5eab9dbd5fed2aa/31.html 『貞観政要』 巻八 務農第三十(凡四章)]</ref><ref>{{lang|zh|《贞观政要》卷8《务农》}}、上海古籍出版社1978年版、第237頁。</ref>。[[715年]]に[[淮河]]流域で発生した蝗害に対して、当時の宰相[[姚崇]]が対策を命じている<ref>『[[旧唐書]]』[[s:zh:舊唐書/卷96|姚崇伝]](ウィキソース中国語版)。</ref>。記録も詳細になり、被害の様子や群れの移動の様子も書かれるようになった。
 
==== 先史時代 ====
* 縄文時代(※時代区分については諸説あり。最も早い説で前期、遅い説で末期) - 稲作(陸稲栽培)の日本伝来。日本列島においてまだ少数派であった稲作の担い手は、稲を害する虫に悩まされたであろう<ref name="JCPA-ウンカ">http://www.jcpa.or.jp/labo/column/control/08/, ウンカをめぐって, 公式ウェブサイト, 農薬工業会, 20200927194014, 2018-05-31, 農薬工業会</ref>が、当時の大多数の日本人にとって“稲虫”の害はまだ他人事であったと思われる。

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