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144 バイト追加 、 2022年2月26日 (土) 01:22
== 農耕の始め ==
古代中国では、農耕を人々に教えたのは神農という神だと言われている。伝説によると神農は、木材をつかって農具をつくり、土地を耕作して五穀の種をまき、農耕をすることを人々に伝えた。また、薬となる植物の効用を知らせたとされる。神農はまず赤い鞭(赭鞭)で百草(たくさんの植物)を払い、それを嘗めて薬効や毒性の有無を検証した、と言われている。神農は、あまりに多くの毒草を服用したために、体に毒素が溜まってしまい、最終的には罌子(ケシ)を服用したとき亡くなったという<ref>袁珂著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 175-183頁</ref><ref>増田福太郎『台湾の宗教 -農村を中心とする宗教研究-』 養賢堂 1939年 40-41頁</ref><ref>[http://www.honzou.jp/04/pdf/28g/28g8.pdf 本草つうしん 第28号 2010年6月30日付] PDFファイル</ref>四川省に伝わる民間伝承では「断腸草」という草を嘗めたのが最後で、腸がちぎれて死んだともされる。四川省に伝わる民間伝承では「断腸草」という草を嘗めたのが最後で、腸がちぎれて死んだともされる。つまり、'''水稲耕作も神農が人々が教えた'''、というのが文献に残る古代中国の稲作の起源の神話である。
『淮南子』に、「古代の人は、(手当たり次第に)野草、水、木の実、ドブガイ・タニシなど貝類を摂ったので、時に病気になったり毒に当ったりと多く苦しめられた。このため神農は、民衆に五穀を栽培することや適切な土地を判断すること(農耕)。あらゆる植物を吟味して民衆に食用と毒草の違い、飲用水の可否(医療)を教え、民衆に知識を広めた。まさにこのとき多くの植物をたべたので神農は1日に70回も中毒した」とある<ref>脩務訓|淮南子・脩務訓「古者、民茹草飲水、采樹木之實、食蠃蠬之肉。時多疾病毒傷之害、於是神農乃始教民播種五穀、相土地宜、燥濕肥墝高下、嘗百草之滋味、水泉之甘苦、令民知所辟就。當此之時、一日而遇七十毒」</ref>。

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