ローマ教

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ローマ教とは、日本の神話に対して、古代に影響を与えたと思われる古代のローマ・カトリックとその周辺の思想を指す。管理人の造語である。本項では管理人がこのように定義した根拠を述べる。

前提[編集]

まず、信仰や宗教とは個人的な事柄なので、管理人自身について必要な範囲で述べる。

比較伝承学は子供の頃からの憧れの学問である。ただし、民族学者の柳田国男ではないが、このような分野を志す人には何か心霊的な原体験があって、それを自らも不可解に感じるからこそ追求したい、と考える人がいても不思議ではないと思う。管理人もその例に漏れないところがある。よって、神霊的なもの、あるいは「魂」と呼べるようなものを、信じているのか、と問われれば信じている、と答える。

でも、管理人が考える「神」というのは、宗教というものが人類の歴史に登場する前から存在していたし、この先、宗教というものが廃れてしまったとしても存在するであろうものなのだ。これを定義するならば、フレイザーの述べる「共感呪術」という言葉が一番合うようにも思える。日本人が祖神や土地の神を敬い、神社を参拝したり、供養したりするのは、それが代々続けられてきた神霊達に対する作法であるからではないだろうか。そのようにして神霊達の存在を肯定しているともいえる。これを先祖から子孫に至るまでの共同での「共感呪術」と言わずしてなんと言うのだろうか、と管理人は考える。

よって、霊的なものの存在は信じるけれども、宗教は信じていない。神を感じるのに、宗教は必要ない。管理人はまずそう考える人物である。

教会というもの[編集]

聖書における教会の定義を挙げる。

主は、地上のご自分の教会がどのように組織され管理されて欲しいと願っておられるか、聖書に非常にはっきりと示している。第一に、キリストが教会のかしらであり、最上の権威であられること(エペソ1:22、4:15、コロサイ1:18)。第二に、地域教会は独立しており、外からのどんな権威も支配も受けず、自治の権利と、いかなる個人や組織の階級制の妨害からも自由であるという権利とを持つべきであること(テトス1:5)。第三に、教会はふたつの主要な職務からなる霊的リーダーシップ、長老と執事によって治められるべきであること[1]

2世紀以降、西洋のキリスト教は歴史を見るに「何が正統なのか、何が異端なのか。」で血道を上げてきたように思える。しかし、地域教会の特性と独立を尊重するのであれば、寛容さこそが必要であって「何が異端なのか。」を論じ、決めつけることこそが、最大の「異端」なのではないだろうか。ニカイア公会議を開こうなどと画策することそのものが、イエスの教えに逆らう「異端中の異端」である、と管理人は独断で考える。そのため、個人的にどう見ても「キリスト者」らしからぬふるまいを行っていたと感じられる古代のローマ・カトリックをキリスト教と呼びたくないと考えている。(現代のものには興味も関心もない。)そのため、まずこれを「ローマ教」と呼ぶことにする、とこれが第1の理由である。

日本国内の事情[編集]

古代におけるローマ・カトリックの布教方法は、ヨーロッパの場合、まず宣教師が出先に出向き「我々の神とあなたがたの神は同じである。」と説き、相手方の神々の内、都合の良いものは「同じもの」として残し、都合の悪いものは排除する。そうして、都合良く残された神は、キリスト教の聖人などに変えて再利用する。一方、支配者階級の者たちには、ローマの進んだ行政、司法、統治の制度、優れた先進的な物品を与えて、改宗することのメリットを説く、というものだったと感じる。

我々の神とあなたがたの神は同じである。」と述べるのが容易なのは、古代のヨーロッパはどこでも印欧語族的な多神教を信じていたからで、神々の機能、構成がみな似通っていたからこそできることである。しかし、ヨーロッパから遠く離れた東洋では、この理論がまず通用しにくくなる。中国でも日本でもそうだが、遠い先祖は神として祀る、近い先祖は神ではないけれども供養して祀る、何かの災害の犠牲者も慰撫するために祀る、地域の偉人は死後もその偉大さにあやかったり称えたりするために神とされたりする等々の傾向があり、そもそも「祀られる対象の幅が広く際限なく増える」、かつ「祀られる対象が神とされていることもあるし、神とされていなくても祀られることがある。彼らの境界の定義も曖昧である。」ということになる。時代が下って、宗教というものがはっきりしてくると、精神的・教義的な概念も神として扱われるようになってくる。そのため、東アジアの「多神教」ほど混沌として収集がつかなくなってくるもののように感じられる。とても西洋的な「多神教」の概念では網羅しきれない要素があったのではないだろうか。

影響について[編集]

日本国内における「ローマ教」の影響について、当初期はやはりヨーロッパと同じく「女神信仰の弾圧」と考える。福岡県久留米市にある高良大社には境内外に「朝妻社」と呼ばれた味水御井神社(うましみずみいじんじゃ)という水女神を祀る神社がある。ここには、古くは水神女神が北斗女神としても祀られていた形跡があり、管理人であれば、この女神が本来の高良山の女神であり、高良大社の祭神でもあった、と考えるところである。紀州の高野山の丹生都比売神に類する物部氏系の女神で、田布都姫と言ったかもしれない、とすら思う。ともかく格式の高い北斗女神が固有名詞を失って、単なる末社の女神に格下げされてしまった背景には、大きな思想的変動があると考える。それは西欧社会でローマ・カトリックが行ってきた女神信仰弾圧と同じものなのではないだろうか。

何をローマ・カトリックと呼んだのだろう[編集]

これが最大の問題である、と管理人は考える。

なぜなら、もっと後の時代になって、仏教というものが日本に入ってきたが、日本人は閉鎖的な社会の中で、数百年かけて、これを「修行して死んだら天狗になる」というような、修験道的仏教に変貌させてしまった例があるからである。例えば、ローマからでも、どこからでも良いが

「キリストというありがたい神様がいます。」

という思想が入ってきたときに、

「はい、そうですか。」

と、それを素直に、受け取ったり、あるいは拒否したりしただろうか。とりあえず受け取っておいて、変なものに勝手に作り替えていないだろうか、後の仏教のように、と思うのである。なぜなら、日本ではローマ・カトリックの影響と思われる「女神信仰の弾圧」はあったと思われるが、結局全体的には女神信仰は残ったし、一神教への神々の統一もなかったからである。そして、そのように作り替えてしまったものがあるのだとすれば、それはもうローマ・カトリックともキリスト教とも呼ぶべきではないと考える。だったらそれは、ローマの思想や文化の影響を受けた日本独自の「ローマ教」と呼ぶしかないのではないだろうか。

丹波・丹後の例[編集]

古代日本における「女神信仰の変貌」は、大きく3系統に分かれるように思う。九州の七夕神社では、神の座所を定めるのに幡を投げて占った、という故事がある。これが丹後では「女神が授けた矢」に変貌しているし、一般的に「白羽の矢」とは人身御供を定める矢のこととされることが多い。竹野神社では、災害を起こす大蛇に天照大御神が斎宮をめあわせようとする話、要は生け贄としようとする話も伝わる。このように一つには女神は

「矢の女神」であり「人身御供を定める女神」

とされたように思う。それに加えて、木花之佐久夜毘売のような

「火山(月)の女神」

の信仰が台頭してくるように思う。桜島の例のように、火山の神は伝統的に月の神としても扱われている。また、蛇頭松姫大神のように

「水神女神が人身御供にされた上に、悪神化して倒される女神になる」

という伝承が目立つようになる。これらの3つを組み合わせて「人身御供」の祭祀がよくよく増えたのではないかと感じる。なぜなら、悪神に見立てた者を殺して悪神を鎮めなければならないし、誰を殺すのかを定める専属の女神まで確立されたからである

西洋では、「矢の女神」で「人身御供を定める女神」で「月の女神」と言ったら、「タウリケーのアルテミス」である。ローマからキリスト教の宣教師がやってきたとして、一体彼からどういう思想を引きずり出したのか。最終的に

タウリケーのアルテミス

を採用して、日本の女神達をアルテミス化しよう、ともくろむことだけ採用したら、どこの誰がそれをキリスト教だと呼んでくれるのか? と考える管理人である。そこだけを採用するセンスも嘆かわしいが、宣教師からどうやって「タウリケーのアルテミス」の情報を引き出したのだろう。拷問でもしたのか、と心配になる管理人である。ローマ・カトリックも異端の弾圧、異端審問に魔女狩と嘆かわしい歴史を持つ組織ではある気がするが、さすがに直接的な

タウリケーのアルテミス

の伝導の責任を追求することは無理がありすぎるように思う。しかし、日本ではこの情報を宣教師から得た、と考えるのが一番妥当なのではないだろうか。かくして、

「月の女神の意向を受けて、男性の祭祀者が人身御供を選ぶ」

という制度が確立されたように思う。丹後も丹波も月信仰が強い土地のように感じる。そして、狼信仰も見られる。これらの思想はやがて東国にまで波及するようになるのである。

関連項目[編集]

私的注釈[編集]


参照[編集]